遺骨に意味はない、遺骨に霊など宿らない。墓も結局、消え去るものと知るべき
従来の墓制度が大きく揺らいでいる。日本の場合、墓制度
は仏教の権力の二号化、支配機構の末端を広く受け持つ葬祭
機能に特化したこと、明治以降の庶民も家父長的家制度に染
まることになった、その結果と云える。非常に固定的な社会
体制、状況が前提という従来の墓制度だが、もはや後継者が
いない、いても檀家制度の枠組みでの墓の維持に多くが関心
を持たない、居住地も極めて流動化している。
墓の定義とはなにか、何らかの遺骸を地下に葬ってその上
に墓石を据えたもの、それを子孫が祀る、慰霊する、という
ほどだろうか。深く考えたことはない。
土葬はかなり前から廃れている、田舎では極稀にあるとは
云うがそれもほぼ消え去っている。土葬の遺骸にせよ、遺骨
にせよ、生命の失われたものは既に物質、かって生命が宿っ
ていたころそれを構成した物質、・・・・・というだけであ
ろう。遺骸、遺骨に故人の「霊」など宿っていない。墓仕舞い
する際に遺骨から霊を抜く、などというが欺瞞である。葬祭
仏教の方便である。
遺骨と云って西日本では通常、二割程度しか遺骨は壺に
入れない。火葬場で残りは廃棄処分となる。東日本は全量
持ち帰ると云うが骨壺はかなり大きなものとなる。収まる
墓は巨大な空間が必要だろう、・・・・・だが遺骨には、
しょせん霊も宿っていないし、無意味なものだと思う。ただ
故人の残るもので何かが、・・・・・と子孫が故人を慕う気
持ちがあれば別だが、実はそれも全く危ういものである。遺
骨に霊など宿っていない、のは真実だが釈尊のようなお方の
遺骨なら意味はあると思う。遺骨を崇める対象は釈尊お一人
でいいと思う。それ以外の人間の遺骨は散骨で云いと考える。
墓制度は完全に揺らいでいる。無縁墓となった墓の遺骨は
合同墓に祀られるというが、それも一杯になってスペースが
なくなり、遺骨を粉砕し、ある土地に埋めたという話も聞い
た。墓でなく遺骨だけ預かるというビジネス、その会社が廃
業し、行き場がない遺骨が大量に出たというニュースも比較
的最近あった。
この世で永遠のものなどどこにありましょうか、全ては消
え去っていく。まして墓などその典型である。永代供養とい
って何も永久でも半永久でもない、無縁墓となって15年ほど
というが、それも保証はない。そもそも故人の墓に参り、故人
を慕う人がいなくなって墓の存在など意味はないではないか。
墓とは生前墓なら本人のため、死後の墓なら子孫のためだが、
その子孫はいても故人を慕い、祀り続けようという意志を持
つ子孫でないと無意味である。どこまでも墓とは「生きてい
る人」のためのものである。
千葉県の我孫子市だったか、行政主導の火葬場で遺骨を持ち
帰らない直葬を推奨しているという。そのサイトも見た、火葬
場で解散、それで全て終わりである。
私はもし残すなら記念碑、と思うが、では誰か記念碑を維持
管理する?と考えれば無理がある。死者が無意味にこの世の地
所を占拠スべきではない。
たった二桁の年数しか、皆、この世にいられない。死ねば無
でさえない、強いて言うならすべての設定自体がないというべ
きだろう。全て空しい。
私は生前墓で樹木葬で自分の墓を作っておいきたい、すぐに
墓が消え去るのは大前提でである。それでいいのである。墓が
消え去ることこそ、故人の真の救いである。「死んで同じとこ
ろに入りたい」と思う家族愛、親子の愛は尊い、だがその後継
がいない、あるいはそのような気持ちを全く持たない、ならど
うだろうか。
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