『醤油仏』吉川英治、1928、吉川英治の初期の名作短編
これは昭和3年、1928年、雑誌「改造」の掲載された短編だ
が見事なものだ。あの記念碑的名作『鳴門秘帖』と重なる時期
の作品だ。
なかなか設定、構成は意外と複雑だがざっと簡単にまとめる
とこういうものか、江戸末期の時代背景、描写も実にいい。
的確だと思う。
ある男がいた、伝公という。江戸時代の話、この男は身体が
特別なのか、特技というか、いくら醤油を飲んでも平気という
ものだった。ガブガブと、一升酒ならぬ、一升醤油を飲んで平
気だった。何でもなかった。餅を何個食べるとか、蕎麦を何杯
もお代わりするとか、食い物、飲み物で張り合う、などという
庶民の素朴なコンクールというのか、人夫たちの賭けともなっ
ていた。娯楽もそれほどない時代だ。
近年、柳橋の万八や中洲の芝清などで、賭食いではないが、大食競べの催しが度々あった。
一方では黒船を打払え、佐幕がどうの、勤王方が旗上げするのと、騒いでいるから、御禁制の布令が出ても出ても、岡場所に隠し売女は減らないし、富興行は密かに流行るし、万年青狂いはふえるし、強請や詐欺は横行するし、猥画淫本は相変らず秘密に版行されて盛んに売れるという世の中。
そんな江戸の時世でいながら、銅鑼亀さんの部屋にいる日傭取などは、食う話ばかりしていて箪食壺漿にたんのうしたことなどは夢にもない。
だが、奇矯人の大食会が流行の因をなして、この手輩の仲間にも、この頃の賭食いは一つの流行りものになっているので、その反古に書いてある、筆頭連中の名は偉なる英雄のごとく見えて、のし餅十枚に煮小豆二升を平げた大関や、大沢庵十六本以上とか齧ってみせた小結の肩書には、自ら敬意を表したくなってしまった。
そのなかで、ひとり土俵死という印のついた名があった。
「おや、こいつあ、たった醤油を七合飲んで死んでやがる」
三公が、そのはかなき名を見つけ出して笑いこけると、年長の由造が、尤もらしく首を振って、
「うんにゃ、醤油を七合飲んだのは偉い」
「どうして偉い? 七合くらい、酒だと思って飲みゃあ」
「ばかを言え、酒とちがって、四合も飲みゃ眼が眩んでしまって、カーッと逆上ると何が何だかわからなくなる。俺も一度醤油賭をして、二合五勺まで飲んだが鼻血が出ちまってあとの二合が飲めなかった。それを七合も飲みゃあ死ぬのは当りめえだ。第一他のものならいいが醤油を飲ませた行司が物の分らねえ奴だ」
で醤油の飲みの賭けで圧倒的勝利を続ける伝公なる男がいた
のだ。勝ち続け、金を手にしていた。負けたほうが悔しがって
その醤油男の飲んで平気な秘密を探ろうとした。佐次郎という
が、その親方、銅鑼屋の亀親方が仕返しに加わった。
伝公の秘密は醤油をたらふく飲んでそれを銭湯に入って汗と
息で発散することだった。銅鑼屋の亀親方が近辺の銭湯に口利
きし、その日は休業するように頼んでいたのだ。見破られたの
った。
例によって一気に醤油を飲み干し、賭け銭を手にして外に出
た、伝公は頃合いを見て駆け出した。銭湯を見つけ、入ろうと
した、戸が開かない、「本日休業」の貼り札。伝公はあわてて
別の銭湯に走ったが、やはり休業の札。必死で走ってまた別の
銭湯に、休業だ「こんなどこの銭湯も休業はないはずだ」一日、
界隈の銭湯を探して見たが全て休業だった、・・・心悸は亢進し、
狂乱して走り回ったが、ついに銭湯に入れず、醤油男は息絶えた
のである。
伝公は狼狽した。
血相をかえて、風呂屋の戸をガンガンと叩きながら、何か大声で呶鳴っていたが、カランという小桶の音も聞えない。
「ちぇッ」と、かれは地団太ふんで、さらに奔馬のような勢いで往来へ出た。もう思い出す湯はこの近くに小町湯とお豊風呂の二軒しかなかった。
「やッ、休みだ!」
唾を吐きかけるようにして叫んで、次の一軒へ来てみると、ここもまた申し合せたような休業札。
「今日は幾日だろう」
伝公はクラクラする頭を押えながら考えてみた。休み日じゃない! 風呂屋の休み日にしろ、こう揃って、何処も彼処も休みという筈がない。
それから伝公は気違いのようになって、湯屋湯屋と血眼で探して歩いたが、もう目眩と嘔吐気に堪らなくなったらしく、両手で頭を抑えたまま、真ッ青になって、自分の家に転げ込むや否や、
「ウーム……」
と弓弦を張られたように身を反らして、柱の根元へ獅噛みついた。
十一
「野郎、今日ばかりは、余ッぽど慌てやがったようです」
蛤鍋屋の奥で、町内の顔役が笑っていた。
「どうも、有難う存じました。お蔭様で仕返しをしてやる事が出来たというもんで」
銅鑼屋の亀さん以下、四人の者が、そこで揃って礼を述べた。
今日の風呂屋の休業は、この頭の口ききだった。無論それを頼み込んだのは、亀親方。
なぜ、風呂屋へ目をつけたかというと、伝公が醤油賭をした時は、きっと、半日で仕事をやめて帰る事と、すぐに必ず近くの銭湯へ行くことを聞き出したからであった。
あの『鳴門秘帖』を執筆中、その前は『剣難女難』という快作
を立て続けに発表の時期だけにウィットが効いていて、展開もこ
気味がいい。髷物ミステリーと言うべきだろうか、ちょっとした
コント的な短編というべきか、山本周五郎の『その木戸を通って』
と共通するものがある。
吉川英治さんの作品も全て著作権は切れている。どんな作品も
電子書籍で無料だが、全集までは電子書籍となってはいない。
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