天才!梶山季之、悲歎限りなき45歳での死、残された膨大な官能小説が落とした翳

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 梶山季之は日本の近代文学を考える上で非常に重要な作家、
その広範な活動も含めて重要な作家だと思う。生まれは父親
の任地の朝鮮だったが、基本的に広島ゆかりの作家で特に「
地御前」がルーツと云えるのではないか。その生み出した作
品は膨大である、「李朝残影」などの朝鮮を舞台とする純文
学、『赤いダイヤ』、『黒の試走車』などに代表される経済
小説、これらは梶山組とされる週刊誌トップ屋時代の経験を
活かしたものである。経済小説とも重なるが企業政治人物小
説法、別に大企業とは限らない、『虹を掴む』、後に国会
議員となった人物がモデルの『色魔』、また『どないしたろ
か』、社会推理小説『ペテン師物語』、『離婚請負業』など
他に風俗小説、ポルノ官能小説、、すさまじく膨大なのだが
社会への印象としては最後のポルノ小説が一番大きかった、
のは結果として大きな不幸と言わざるを得ない。「あのエロ
作家」性豪梶山季之という虚名が蔓延してしまった。

 若くして肺結核、生涯、引きずって度を越した飲酒、また
喫煙、交際も多彩、あの多忙でよくぞあれだけの作品が書け
たもの、青学を出てホテルニューオータニのホテルマンとな
っていた森村誠一さん、フロント係だったが、ホテルを仕事
場とした梶山季之から毎朝、その原稿を受け取って預かって
いた。その原稿を盗み読みしていた森村誠一、梶山季之の
執筆力に驚嘆していたという。

 無二の親友だった山口瞳は「梶山はもう三年はもたないと
思っていた、朝からビール、夜は銀座に繰り出す、また訪問
客がいたらウィスキーでの歓待、肝臓が限界だった」

 だが梶山季之は生涯のライフワークを企図していた、日本
人移民・ハワイ、生まれ育った朝鮮、縁の地広島・被爆問題
これら三地点を取り入れた大河小説である。タイトルは『積
乱雲』としていた。官能作家のレッテルを振り払いたい、真
に書きたいものを書きたい、というその念願は強く、その取
材で』1975年5月、香港に、そこで肝炎の悪化で死亡した。
45歳の若さだった。あれだけの多忙、交際、飲酒でよくぞ、
あれほどの膨大な著作、しかも半端なものはない。

 本当に書きたかったものは純文学、欲しかったものは文学
賞である。『李朝残影』で直木賞候補にはなったが、すでに
大流行作家ということもあって受賞はならず、ただ作品とし
て私は純文学として何が弱さを感じてしまったのだが。佐々木
久子さんの回想では「新宿でよく一緒に飲むんですよね、あ
の人って優しい人でしょ、すぐ泣くんですよ『俺は文学賞が
欲しいんだ』って」

 膨大な官能、エロ小説量産では文学賞も縁遠いものとなる。
これは悲劇である。

 死の前年、1974年の秋、欧州旅行に行く前、家族に遺書を
残していた。

 これは娘、一人娘に残した遺書である。

 「(娘)美季、父親がポルノ作家などと呼ばれて随分、辛い思
いもしただろうが、気にしないでほしい。いずれ、父の志は高
きにあったことをわかってくれると信じている」

 万一の事態が起きたらと書いていた遺書だった。妻の美那江
さんも「縁起でもないと、そのまま見もしないで忘れてました
が、まさかこえれほど早く」と絶句した。

 1975年5月8日、英国領香港で吐血の知らせを聞いて夫人は「
今度こそ、これでお酒をやめてくれる」ぐらいにしか受け取ら
なかった。だが翌日、「ぜひ来てほしい」と領事館から連絡が
あった。「まだ五分五分では」という気持ちで夫人と長女は香
港に向かった。

 イギリス政庁立クイーンズ・メアリ病院に二人が駆けつけた
時、梶山季之は長女の美季さんをみて「歯の具合はどう」と声
をかけたという。連休に歯のちょっとしたオペをやったことへ
の気遣いだった。吐血、下血で梶山季之はすっかり憔悴してい
た。意識がはっきりするたびに長女に「一緒に帰ろう」といい
続けた。

 世には官能作家、ポルノ作家の印象だけが突出して強くなっ
ていた梶山季之、そのため長女は学校で「ポルノちゃん」と冷
やかされていた。それを聞いた梶山は「本当に申し訳ない、ま
いったなぁ」と歎息したという。また同じ頃、銀座のバーで梶
山はある若手落語家から「なんでぇ、エロ作家じゃないか」と
言われ、絡まれたという。まず酒席で怒ることがない梶山が「
本格古典落語など知らずテレビばかりに出る奴にそんなことを
言われる筋合いはない」と激高して大声を出したという。だが
、実際、これは梶山の痛い部分ではあった。

 遺書にはまた「昭和という難しい時代にあって、言論人とし
て守るべきものは何としても守りぬきたい」とも書いていた。

 梶山季之は吐血後、4日目、5月11日、午前5時半に息を引き
とった。日本の病院と異なり、臨終に家族は立ち会えなかった。
暗い廊下に立ち尽くす夫人と長女に医師が「残念な結果となり
ました」と伝えに来た。臨終の言葉は聞かれなかった。その日
の香港は抜けるような快晴であったという。

 梶山季之は昭和5年、1930年、父親の任地のソウルで生まれ、
その後、父親の郷里の広島に戻り、広島二中から広島高等師範
学校へ、広島高師時代、同人雑誌メンバーであった美那江さん
に出会った。昭和27年、1952年に肺結核が判明、肺に空洞が見
つかったが上京、工業高校の教職に就いて同時に結婚、やがて
第十五次「新思潮」同人となった。文筆生活はいるが生活は夫
人経営の喫茶店に依存していた。その後週刊誌のトップ記事を
書く、トップ屋稼業に。「トップ屋」とは梶山季之に発する言
葉である。クール派トップ屋が草柳大蔵でホットなトップ屋が
梶山季之とされた。広島大仲間なども集めて「梶山組」を結成、
縦横無尽に活躍したが1961年、肺結核再発、トップ屋はひとま
ず降りて経済小説執筆、ここでも梶山組の情報収集を活用した。
流行作家の仲間入り、ホテルにこもって一日100枚以上を書き
挙げていたという、フロントマンの森村誠一氏が結果的に文学
の道に入るきっかけともなった。
 

  その作品は質量ともズバ抜けているが量産した官能小説が
死後の評価で足を引っ張ったのは否めない。真に書きたいもの
は純文学、その結果の文学賞がほしい、叶えられなかった。そ
のライフワーフ『積乱雲』は出だしだけで終わった、取材旅行
中の客死、・・・・・・私は梶山季之の死をあまりの夭折と言
わざるを得ないのは、果たせなかった志があまりに大きいから
である。悲劇である。それだけの才能を持っていたのだ。

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