「源氏物語」は本当に「もののあはれ」を描いた文学なのか?本居宣長の無意味な指摘ではないのか?

実を言えば、このタイトルでどこかにコラムがあったとは
思うがその雑誌の場所がわからなくなって、タイトルとさわ
り部分しか読んでいない。だがそのタイトルの「源氏物語は
本当に『もののあはれ』を描いたというべき作品か」にはお
おいに共感したのである。
古来、本居宣長が「源氏物語はもののあはれ」を描いたも
のだ、という『玉の小櫛』の指摘を、源氏物語の本質を突い
た指摘だ、との評価が圧倒的のようだ。だが、「源氏物語は
もののあはれの文学だ」というのは実は何も語っていないわ
けである。それは「ものあはれ」とは何かである。
「あはれ」とは端的に言えば日本文学の基本理念であり、
浪漫的な精神を貴重とするものだろうか。「あはれ」は実際、
数多く用いられており、種々の解釈が可能である。
小学館の「古語大辞典」中田祝夫ら、によると「あはれ」
とは①対象への感歎や賞美の情を表す②同情や哀憐を催す
③愛着や恋慕などの詠嘆を表す④哀愁の情を表す⑤一般に深
い詠嘆を表す、以上は「感歎詞」で「形容動詞」は①いみじ
みとした情緒を感じる②しみじみと愛情を感じるさま③愛情
あるさま④人を深く感動させるさま⑤心にしみる情趣あるさ
ま⑥心にしみような情趣あるさま、
など至って漠然たる「情趣」、それの情感の付与は個々で
ある。
なら「ものあはれ」とは?だが同じくこの古語辞典で
「もの」は形式名詞で古くは人智を超えた神秘的存在
を指していたが中古では有形無形を問わず、対象一般を
表した。「もののあはれ」は「物の心」と同義に用いられ
たが、人情を表すこともある。中古ではこれを美の理想と
してもちいる用法はなかったが、これを文学究極の理念と
したのは本居宣長である。
というところだが現在というか近代は、「哀れなやつ」
という具合の用法が多い、「おいたわしや」と言うに近く、
「気の毒」という情感だ、・・・・・・
ならば本居宣長が「源氏物語はもののあはれを描いた文
学」というのは、端的に言えば、
何も意味していない、意味するものがない、全く無意味
な指摘である。
中古のおける「あはれ」は広くやや悲観に傾いた情趣一般
というほかない広く漠然たる情感をあらわす。ましも「もの
のあはれ」とは「物の心」くらいの意味でしかないのだから、
江戸時代において意味のs、ニュアンスの変遷はあろうとも、
「源氏物語は、物のあはれを描いた文学」というのはおよそ
無意味で、ありていにいうなら愚劣な考えである。もしそれ
をいうなら中古の古典文学は、ほぼ全て「もののあはれ」を
描いたものであり、「平家物語」や「讃岐典侍日記」、「今
昔物語」などのほうが、よほど遥かに「痛切な哀感」が込め
られたものだろう。ほんの例示である。
そもそも『源氏物語』は「女性が女性のために書いた恋愛
小説である。内容が70年間にも及び、構成はこみいっていて
登場人物も多い。『源氏物語』は「おもしろいのか、おもし
ろくないのか」という議論も「女性が女性のために書いた恋
愛小説」と思えば、男が読んで少しも面白いものではない。
「更級日記」の作者が夜を徹して夢中で読んだ、女性だから
である。男が吉屋信子のっ少女向けロナン小説を読んでも全
然つまらないのと基本変わらないが、女性には至高の価値を
持ち、喜びを与える。ただ優れた写実小説ともなっているが
紫式部の理想や批判を託した「理想小説」というべきだろう。
「橋姫」から「夢浮橋」に至る十帖、宇治十帖における紫式
部の心の観照は冴えに冴えている。だがどこまでも基本は女
性向けの恋愛譚、そこに起こる悲劇、出来事、それが文学と
して普遍化されているか、だろうが女性の読み物であること
に変わりはない。
で、「もののあはれ」を描いた文学?描いたのは恋愛だ、
その反照での哀感があるのは当然なれど、本居宣長の指摘
は意味をなさないというしかない。
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