水川隆夫『漱石と落語』渓流社、漱石がなぜ受けるか、の大きな要素が落語


 漱石は日本近代文学でまずはトップの人気小説家である。
その秘密は、と考えると軽妙洒脱な乗リの作品と非常に深刻
な内容、陰鬱な重苦しい作品、まさ最後の『明暗』のように、
見事な文学的な深度を持つ作品、さまざまでるが、常に真実
性のある人間観察、親しみを持てる表現力に裏打ちされてい
ると感じる。

 で、今までも漱石と落語、というテーマで何度も書いてき
たのだが、今度、水川隆夫『漱石と落語』という本を目にし
た。

 水川隆夫さんは実は私としては初めて知ったのだが、1934
年、京都生まれ、京大文学部卒、中学、高校の教員を経て京都
女子大の講師、から教授に。漱石関係の著書が多い方である。
また国語教育に関しての著書も多い。

 「まえがき」では

 「漱石の作品が幅広い読者層を持ち続け、親しまれて国民
文学となり得た秘密として、彼が落語を一つの芸術、あるい
は文芸の一ジャンルのように扱い、・・・・・そこから湧き
でる限りない豊かな文学的地下水を汲み上げられたから」

 だと述べている。たしかに的確な指摘だと思う。

 「漱石の文章は読んでいてリズミカルであり、調子がいい、
会話が実にうまく、ツボを心得ている。これも落語というも
のを文学のベースとしたからではないか」

 確かに同感だ、例えば『永日小品』という作品の文章も、
さりげないがその自然、事物の表現がいきいきしている。
これは鷗外には到底、見いだせない特色だろう。

 それというのも漱石の育った環境にある。

 「寄席が二十軒も集まっていた浅草近辺で育ち、その記憶
が高い教育を受けるに従って、・・・・・周囲からの孤立感、
孤独に悩んだ漱石が、人間、庶民とつながっていたいという
無意識的な欲求が落語へのさらなる傾倒を深めたのではない
だろうか」

 『三四郎』で三四郎の友人が「小さんは天才である」という
部分は誰しも、印象にあるだろう。

 特に「ホトトギス」に好評連載した『吾輩は猫である』は
落語そのものだろう。著者が云うには、『猫』の主人の珍野
苦沙弥という名は「くしゃみ講釈」から思いついたと考えら
れるし、その苦沙弥が水彩画を描いて失敗する話は落語の「
寝床」や「たいこ腹」など主人や若旦那が下手の横好きでし
くじる素人ものを意識しているからだという。

 で長編の『猫』のラスト場面は皆が次々と帰り、「寄席が
はねたあとの様に座敷は寂しくなった」吾輩がビールを飲ん
で陶然となって、水瓶に落ちて死ぬという「落ち」である。

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 まさに、何もかも落語そのものだろう。

 「漱石は近代以前の儒教倫理を引きずり、近代精神も身に
つけようと努力した。それが文学の奥行きの深さとして作品
に現れている、読み返すたびに登場人物の別の面を見たり、
新たな謎も湧いてくるのは落語ゆえである」

しかし、漱石は落語をかくも愛好した、だがご子息の伸六
さんなどの回顧談、エッセイを読む限り、日常の漱石はおよ
そ洒脱で楽しい人間ではなく、まったくその正反対であり続
けた、子供から見て本当にうっとおしいイヤな父親だったと
いうこと、落語が日常には反映しているとは思えないのであ
る。

 さて、大正五年、1916年11月21日、漱石は築地精養軒での
辰野隆の結婚披露宴に招かれた。その席には漱石の大好きな
天才!小さんが呼ばれていて余興で「うどん」を演じた。だ
が帰宅後、漱石は胃の具合が悪くなって「翌日から病床に臥
し、次代に悪化、12月9日に死去した」で結ばれている。

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