正岡容の『荷風前後』、荷風訪問に狂喜乱舞の容が目に浮かびそう


 正岡容、「まさおかいるる」何度か書いた気はするが、い
つもまた書こうとしたら、「はて、どんな人だったか」と考
えこんでしまう。実際、基本は作家、また演芸作家、という
ところだろうがジャンルが不明瞭な人物であることは確かで
ある。門下の弟子から多くの著名な人を輩出した。かって存
在した雑誌『彷書月刊』の後期の編集に携われた坪内祐三さ
んが最終号での座談で「編集した多くの号で最も印象深い号
は?」との質問に、即座に「正岡容の特集」です、と応えて
いる。2004年12月号である。「正岡容 生誕百年」と銘打っ
た号だった。正岡容1904~1958,享年53歳。

 正岡容は19歳の時、「黄表紙・江戸再来記」を『文藝春秋』
に発表、大正12年、1923年のときでこれが芥川龍之介の激賞
を受けたと云うが、これは全く例外的なことでしかなく、ど
うもジャンルがよく分からない正岡容は文壇にも一般ジャー
なリズムにも無視される存在だった。認めたのは松崎天民と
いう人だったそうだ。坪内祐三さんは正岡容を「一種の特殊作
家」と呼んでいる。松崎天民は『食道楽』という雑誌の編集長
を務めていて、ほぼ毎号、正岡容が寄稿し、また座談にも出て
いた。

 その昭和5年11月号の座談会、「エロ・グロ与太話』で正岡
容も出席、松崎天民(岡山県出身)はこう容を紹介している。
坪内さんのエッセイから引用である。

 「正岡容くんは寄席などで噺の方をやっておられるというが、
むしろ我々は一種の哀調を帯びた氏の文章に感心し、随筆家と
して尊敬しているのでありますが、酒を飲んでの能弁、また趣
があり、・・・・・」

 矢野誠一さんの文章だが

 「寄席通いにうつつを抜かしていた不良中学生時代、東宝演
芸場は他の演芸場にはない高級感があり、・・・・・肝心の寄
席の記憶はほとんどないのに、客席の一番うしろに陣取った中
年男性が、とてつもなく甲高い声でとよく笑っていたのを憶え
ている。着流しの和服で、出番を終えた芸人かと思っていたら、
実は当時、東宝演芸場の顧問をしていた正岡容と、かなりあと
になって知った」

 とある。

 さて正岡容は永井荷風を尊敬しており、終戦後かどうか、荷
風が訪問してきたときは狂喜乱舞したという。ただ荷風の目当
ては奥さんの方だったとかいう噂もあるが。

 この本を読むと、とにかく容の荷風への尊敬、畏敬のほとば
しるが如き情念を感じるのだ。その荷風への傾倒ぶりはすさま
じいものだ。まことに臆面もない。

 『荷風前後』から


 昭和廿一年八月十一日

 晴。早起、徳川夢声君を訪う。川柳誌上木打合せ也。
 宿酔悶々中ゆゑ、小談辞去。

 永井先生来書。一家驚喜。小蛇生、来。午、突如、海水帽、
開襟シャツの永井先生ご来訪、ただただその光栄に夫婦狼狽、
なすところを未知。先生、前歯は欠けたれど日焼けしておん
若く、「問はず語り」特製本、「腕くらべ」いづれも御署名
本給わる。文学談、寄席懐古談、オペラ館のこと、「来訪者」
主人公のこと、快談不尽、暮に至る。崇敬廿有余年、現世拝
眉を断念いたりし永井先生御来庵の栄に浴す。非才不敏の作
者冥利、茲に尽く。挺身力作せざる可からず。月団々。

 とその喜びようはすさまじいが

 同じ日付の荷風『断腸亭日記』となると

 八月十一日  日曜日  晴

 午後正岡容氏を訪う、夜菅原明朗氏来話。

  と全くそっけない。

 ただ容は、補足を足している。

 荷風の容訪問の第一声が

 「新円も亦封鎖をやりますねぇ、きっと。だから私は銀行に
預けませんよ」

 だったと記している。金銭感覚はああ見えてシビアな荷風だ、
経済金融は気になっていたようだ。

 (ちょっとまだ追補したい)

 
  左が小沢昭一、右が正岡容


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