川島芳子、アメリカで生存の噂の空しさ、だが
いまさらながらだが、川島芳子の生存説、もちろん年齢的
に今も生存はあり得ないが、死刑執行されたのは替え玉で、
実は逃されている、との噂は川島芳子の死刑執行直後から存
在している。1972年刊行の『秘録 その生涯の真相と謎
川島芳子』渡辺龍策でもその死刑身代わり説、、実は生存と
の説が綿々と述べられている。これはその後、テレビ朝日系
だったか放送された『川島芳子は生きていた』それに関連の
『川島芳子 生死の謎』李剛著(星雲社)にも詳しく述べら
れ「方おばさん」が紹介されている。
私も考えてみたが、やはり生存していた可能性は低いと考
えるしかない。処刑後、日本の日蓮宗本山妙法寺僧深沢世師、
など日本人も確認しているのである。往々にして表に出る
長髪の女性の処刑後写真は明らかに別の場面のものである。
身代わり説もすでに繰り返し述べられているところだが、じ
っさい信憑性は疑問である。中国での生存説も川島芳子は並
外れた低身長だから方おばさんと全く異なる。あの短歌に情
熱を注いだ川島芳子が生き延びて、短歌を一つも制作してい
ないなど、あり得ないと思われる。芳子の実兄はロシア、あ
るいはモンゴルへ逃げ延びている、に期待を繋いでいたとい
う。
「芳子は死刑執行と決まり、銃殺される日時が判明した時
でも、一言の遺言も残さず、黙って処刑されたことなどあり
得るだろうか。
彼女は女性の囚人に、自分へ差し入れられた食物、タバコな
どを分け与え、人気を博してたが、元満州国の侍女らにも何の
遺言も残していない。
薄明の中に起こされ、芳子が刑場に去ったあとは、しばらく
して銃声が聞こえるまで彼らは全くその処刑されることを知ら
なかったのである。
死刑宣告後の好しこの態度は別人のように悄然となっていた
。それまでの快活さが消えてしまった。新聞記者や、その他の
面会者が多かったが、ある日、一人の米軍将校がやってきた。
米軍将校は長い間、監房に入り込み、芳子とふたりきりの話
をしていた。それまでは一般面会者があったら、芳子は必ず壁
を叩いて女囚の蔭太太にその日の様子を話すのが常だったが、
この日だけは芳子は沈黙を守り通した。蔭が聞いても話をそら
したという。
それから死刑執行までの一週間、芳子は一転して陽気となった
という。死刑執行の直前もである。黙って刑場に向かった。芳子
の日常を知るものは誰もその死を信じなかった。
芳子は一着の米軍軍服を贈られたことを非常に喜んでいた。
蔭はしごその遺品を整理したが米軍軍服だけは見当たらなかった。
この噂が事実なら、なぜ米軍は芳子を救わねばならなかった、か
という問題が残る」
やはり事実でないのは、米軍当局がこの噂を調査し、北京から
送還された日本人の責任者の古閑氏を召喚し、事情聴取したこと
からもわかるだろう。処刑にまつわる疑問は残るが、芳子が生き
のびていた生活していた形跡は皆無だったのである。
獄中の川島芳子
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