書くように喋りたい、真の名文とは

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 よく喋るようにか書け、と云われる。だが私に関してはこれ
は全く妥当しないのだ。これを真に受けて、もし私のような
者が本当にしゃべるように書いたらどうなるだろうか。まこ
とに口下手、訥弁を超えた惨状であり、舌のみならず喋る際
は頭の回転も支離滅裂だから、しどろもどろ、でも書けば、
筆記なら素晴らしいかと云えば、ペーパー試験、期末試験、
入学試験、学内の試験、さっぱりなのだから情けないことで
ある。ま、ともかく喋るのはまるでダメ、これだけは確かで
ある。とまあ、結論は書くように喋りたいとは思う。

 とはいえ、この世は喋るが勝ちという風潮は間違いなくあ
るから、その結果として喋るように書け、という教えがある
のだから、書くように喋れ、という教えがないのはやや片手
落ちのように思える。

 なら、ともかく書くなら名文、巧い文章を書けたらとは思う
のだが、どんないい文章を書くという教えも私には役立たない
のである。何がいい文章と云って、要は書く人間の個性と云う
のか、精神的な人間的魅力、の表れでしかないから、文章だけ
が名分として浮いて存在しているはずはないと思う。だから私
のような人間が書くと、目も当てられないような文章になりが
ちなのである。

 ともかく喋るように書け、別に強いて名文など書こうと思う
な、という世間の常識というべき文章の上達法は、半ば天才に
妥当することであり、私のような凡才には妥当しない。何か、
多少なりともなしな文章を書きたい、とはおもって机に向かい、
僅か、再会して五年にも達しないのに6550甲斐も書いたら自
然と精神的な人間力が出来て文章も上達しそうなものだが、も
ともと官僚、国家権力、また国際的プロパガンダには反感を憶
えるたちなので、ついその方面のないようで激高してしまいが
ちな文章を書いてしまいがちである。ただ、やはり、強いてう
まそうな文章など求めていないような、ざっくばらんな文章を
書いてみたいとは思う。

 で、例えばの話である、文学で「名文」と感じるような文章
があるのか、といえばひとそれぞれ感じ方はさまざまだろう。
私は別段、とりたてて「名文」などと考えなくてもいいとは思
うが、芥川龍之介のある種の作品は「名文」に値するし、芥川
の推奨の漱石の「永日小品」なども名文と思う。同じ「平中
の色好み」を描いている、芥川の「好色」、谷崎潤一郎の「
少将滋幹の母」、芥川はいたって短編だが、才筆という点では
芥川が段違いに上だと感じる。作品としては「好色」は全く
評価もされない作品であり、「少将滋幹の母」の評価は超高い
が、谷崎はあまりに余裕綽々とその古典知識をひけらかしな
がら、しまりのない文章に終始している気がする。芥川の「
好色」は別に今昔物語の引き写しではなく、、換骨奪胎の名品
で真の名文だと信じる。

 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水もを煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にもる位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
 平中はかうきながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、の円光にとりまかれた儘、恬然と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……

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