宇野浩二『芥川龍之介』1953,いいことも書いてあるが、あまりに冗漫すぎる


 「芥川龍之介」というタイトルの本では、弟分的な立場で
親しく接した小島政二郎の『芥川龍之介』が評伝的な内容と
その人間論、文学論を交えて実に優れていると思った。それ
に対して宇野浩二、やはり芥川と親しく接していた、わけだ。
私は芥川が宇野浩二『我が日我が夢』に寄せた序文で「諧謔
的抒情詩」と述べた感動的な内容、つまり芥川は宇野浩二を
非常に高く買っていた、『或阿呆の一生』で「ある友人は発
狂し、花さえ食べた」と宇野を述べているが、・・・・・だ
が逆に宇野浩二は芥川をさほど作家として評価していなかっ
たことは明らかだ。ちょっと読んでみろ、と第三者から言わ
れた芥川の『鼻』を読んでも、「ちょっと、これは」という
のが文学の真実性がさほどない、と感じたのは否めない。
そりゃ私だって『鼻』を読んでしっくり行かない部分がある、
禅智内供の悩みの鼻が短くなって、嘲る者もいただろう、だ
が喜んでくれる人だったいたはずではないか。巧緻な作り物
、としか言えない作品だ。

 で、宇野浩二の『芥川龍之介』、評伝的な小島政二郎ほどの
まとまった充実した内容ではない。
 
 タイトルに「思い出すままに」という副題めいたものが添え
てある。これを宇野流に云うなら「副題とは本題のそばに付け
て、別の言葉で、その本の内容を説明する言葉」くらいだろう
か。芥川をネタにしてよくぞこれだけ思い出せた、書けたもの
と感心する。

 だが「私が、これまでダラダラと述べてきたことも、これか
ら述べることも、マチガいだらけに違いないですから」とか、
「私のような者には、物事を正確に伝えるなどということは、
まったく出来ないのは、知る人は知りすぎるほど、知っている
であろう」とま、「まことしやかに書いているこの文章にも到
るところに作り話があることを、ここで断っておく」という文
に出会うと、いったい、どこまで信じていいのやら、迷ってし
まう。

 さらに、この本は芥川について書いてあるはずが、話はしょ
っちゅう脇道にそれ、本題と全く無関係なことが、「思い川」
ではないが「思い出すまま」にくどくど語られるから、例えば
テーマ小説について述べる時、短歌の「題詠」というのは「題」
によって歌を詠むのだから、「テーマ」で小説を書くのと幾ら
か似ており、「題詠」のことがいろいろ説明されている。これ
に類することは多いだろう。

 つまり、メインテーマの芥川について宇野浩二はどう考えて
いるかと言えば、

「芥川は実に人を食った男だった。が、それ以上に他人が想像
も出来ないほど、気が弱いところがあった」

とか「その性質は、しかし、複雑であるが、煩いをしたのは見
え坊と極端な気の弱さであった」

 また「芥川の小説は、、窮屈になり、飾りすぎて、いかに切
羽つまったことを書いても、人に迫るところがなかった」

 さらに「芥川は、花やかには見えたけれど、あまり幸福な生
涯は送らなかった人だ」

 で、「芥川は死ぬまで、芸術家であった。されば、芥川は決
して文学に敗けたのではない」

 宮本顕治の「敗北の文学」への反論だろうか?

 「結局、私は、一般に評判の良い、晩年の心境ものよりも、断
然、初期と中期のいかにも芥川らしい作品をとりたい」

 その考えを裏付けるべく、芥川の作品の鑑賞、分析をおこなっ
ているが、これはさすがに「文学の鬼」宇野浩二というべきか、
とくに『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『歯車』、『或る阿呆の一生』
などの晩年の作品を微にいり、細を穿って、ご立派だ。また本書
を流れる「やさしくも悲しかった」という芥川への宇野の温かい
友情は感動的でさえある。

 なのだが、あまりに無駄が多いのは否めない。長すぎる。水上勉
の「宇野浩二伝」ほどでもないが、長すぎる。宇野が芥川の『河童』
を評して述べるのだあ

 「なかなか面白いが冗漫なところもあり、雑駁なところもあり、
それから著者が調子に乗って時に饒舌を弄しすぎる。それで読み
づらくもなって、退屈にもなる」

 そもまま宇野浩二『芥川龍之介』に当てはまりそうだ。


 宇野浩二と芥川龍之介

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