今東光『お吟さま』1957,侍女の語りによる展開、「語れども描けず」の典型。文学的には、ちょっと

これによって今東光は直木賞受賞、文壇復帰だったが、「
あんな古狸になぜ直木賞!」という不満も渦巻いたのは事実。
この作品は利休がなぜ秀吉の怒りに触れて切腹となったか、
その理由を養女の「お吟」にあるとして、その謎解きを行おう
としたものだ。お銀の側に仕えた侍女を語り手としてこの作品
を展開させている。あのフグ毒で死亡した三津五郎が京都南座
でそのとき演じていたのは利休、演目は「お吟さま」であった。
お吟は利休の実子ではなく,松永弾正が猿楽大夫宮尾道三の
娘に産ませた子である。弾正が信長に攻められて滅亡し、その
後、その妻は利休の後妻として、お吟を連れ子として千家に入
ったのである。だがお吟は秀吉の信任を得て威勢を轟かせた石
田治部小輔(石田三成)のお声掛りで、利休の茶湯の高弟、万代
屋宗安に望まれて、万代屋(もずや)にお腰入れとなった。
しかし、お吟はキリシタン大名、高山右近太夫に恋い焦がれ
ていたのだ。右近は利休の愛弟子でもあった。お吟をキリシタ
ンの信仰に導こうとして近づき、結果、二人の愛情を深めるこ
とになった。万代屋へ嫁して後に、思いがけず再会の二人、侍
女「わたくし」のとりもちで情を通じることになる。だが二人
の密会は石田が察知し、宗安に知られることとなって、お吟は
離縁され、里方に戻された。その間にキリシタン信仰は禁止さ
れ、右近は小豆島に身を隠し、やがて天草の湯島に落ち延びる。
この前に、北野の大茶会でお吟の美貌が秀吉の目に止まった。
他方で北政所は、お吟を秀吉の側室とし、淀君の増長を抑えよ
うとした。そのためお吟は淀君に睨まれ、お吟が秀吉の意向に
沿わないのを知って、逆にお吟の味方になった。
小田原征伐で、右近が加賀の前田家の軍奉行で出陣の噂があ
あった。ある日、お吟のもとに右近からの密書、指定された南
禅寺に出向くと、意外にも石田の部下に捕らえられ、連行され
そうになったとき、覆面姿の右近が現れ、「懐鉄砲」の威力で
お吟を奪回し、その夜、はじめて二人は「一期の恋を成就する」
、となかなかすスリラー的場面もある。翌日は秀吉からのお召
で「黄金の茶席」で赤頭巾の秀吉から口説かれるが、断固、は
ねつける。
かくして右近を頼って、雪降る北国に落ち延びる計画も失敗
し、父、利休から最後のお茶を受けて自害し、果てる。やがて
利休も秀吉から切腹を命じられる。
なのだが、侍女の口を借りて展開だから、具体的描写、表現
を相当部分、カットする羽目になったのは否めない。
「天下一の茶道の大宗匠千利休様の御娘として生まれながら、
恋い慕う御方様とは一日の添臥しも相成らず、牙を剥き、爪を
研ぐ男の餌食とな給う運命とはそも如何なる月日のもとに御生
まれ給うだのでござりましょうか」という「わたくし」の語り
くち、たしかに効果はあるにせよ、これでは人間の精神、情念
を描くには全く不適な手法と思えてしまう。淀君の「華麗なお
美しさ」、「豊麗」、「爛熟」、「南蛮渡りのギヤマンのよう
にお美しい」など軽々しい安易な表現が目立つというほかない。
「ただ一夜の罪のため、命を賭けた女子というものは、八大
地獄に堕ちましょうとも悔いるものではござりませぬ」という
具合に、お吟をそういう女に仕立てて利休の死の謎解きを行う
という今東光の手法、はお話をつくっただけで内面など文学的
探求とは全く無縁というほかない。
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