水原秋桜子『旅馴れて』昭和の戦後版「奥の細道」、俳句主宰者の旅

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 私は俳句はさっぱり、でも学ぶとしたら蕪村の句かな、とは
思う。古来、私は結果は見ない、見たくないという主義、学校
の成績、大学も歯学部は卒業時に科目別の評価だが、見ないで
ゴミ箱へ、という感じ、負けず嫌いということが根底にある。
俳句は非常に評価を重視する世界だ。やはり評価は見ないこと
にしている、・・・・・さて、戦後、昭和30年も過ぎて何年か
経っての出版、俳句会の頭目の一人、水原秋桜子の旅であり、
芭蕉の「奥の細道」昭和版、戦後版である。

 俳人の旅日記、みたいなものだは俳句雑誌、結社の主宰者の
旅である。古書である。入手は十分可能だ。出版は1957年、昭
和32年という。もう67年も前になる。秋桜子のその頃までの旅
における随想と感想を集めたもの。各編の終わりにその旅の収
獲の句が数句、載せられている。それまで風景を詠むことを好
んえいた秋桜子だが、旅に出るのは億劫だった。だが空襲で病
院も自宅も失ってしまい、もう半ば解放された気分となってか
らは、うってかわって気軽に旅に出るようになった。

 気軽に旅にでるといって、そこは俳句雑誌の主宰者、俳句の
世界のリーダーの一人だけにその旅も東京駅では見送りの人、
行く先々で「馬酔木」の会員、また初対面人の人、その土地の
句会、俳句結社の人たち、地元新聞が主催の座談会、句会があ
る。まあ、芭蕉の旅を豪勢にしたようなものだろう。もちろん、
その土地の名所旧跡を訪れる。ここで一句、あそこで一句とい
う具合に句帳に書きとめる。訪問客は続々と後を絶たない。
句評を頼まれ、色紙も書く。「北陸晩秋」、「旅中晴雨」、「
高原」、「信濃の山々」、「山陰行」など、日記の形式で旅の
印象を詳細に記しているのだ。

 まずは句作が目的としても、思うに任せないことがおおい。
精神的にかき乱されるようだ。「高松では句ができず、小豆島
では何とかなりそう、ここで駄目だと申し訳ない」とリーダー
ならではのプレッシャにさいなまれている。北陸の夜、加賀の
千代女についてしつこく聞かれ、閉口している。俳句論もある。
「源平布引滝」の斎藤実盛の台詞をなぞって「無季の方々とは
実作で勝負いたしましょう」と応えている。

 句作への心構え、苦心、いたって断片的のようだが、旅の文
章には出やすいようだ。題材が豊富なのはいいとして「それだ
けに平凡な句ばかりになりやすい」とも。句作も容易ではない
ことがおおく、「遂に想ならずして睡る」、「すべて作者はと
いうものは会心の題材に出会うのは半年にニ、三度なれば、普
通の題材で我慢して詠むことを修練する必要がある」とある。

 俳人の紀行文として、さほど個性はないのだが、事物をいた
って要領よく観察し、記録し、まとめ上げているのは頭の良さ
だろう。収録された旅の俳句がいいのかどうか、私にはわから
ない。

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