秋山駿『魂と意匠ー小林秀雄』1986、中原中也の視点で小林秀雄を論じる

  IMG_6582.JPG
 小林秀雄、うーん、以前、昔は大学受験の国語の試験問題
によく出されていた気がする。一体全体、どういう人なのだ
ろうか、とは思ってきたものだ。『様々なる意匠』昭和4年、
『志賀直哉』昭和4年、『Xへの手紙』昭和7年、『私小説論』
昭和10年、『ドストエフスキイの生活』昭和12年、『無常と
いう事』、『ゴッホの手紙』昭和26~27年、

 小林秀雄については数多くの批評があったはずだが、実際
にあった。厳しい批判、逆に称賛、小林秀雄を論じるのは何
か照れてしまうような部分があるのではないか。小林秀雄の
思想というものがよくわからないからだ、といえるかも。
小説家を論じるのではなく、批評家を論じるという意味だ。
 
 秋山駿の『魂と意匠』小林に敬意を払いつつ、小林の混乱
、疑惑を指摘しているのではないか。批評家が批評家を批評す
るとは何か、なのだ。とにかく、小林秀雄の論述自体がわかり
にくいのだから、それを論じる文章もそのつもりにならないと
つき合えない。秋山駿は小林秀雄を、「自己とはなにか」とい
う問いに捉えられた人間と規定する。さらに、「自己」とは小
林秀雄の「自己」である。それを「自伝」という形ではなく、
文学者、芸術家を論じる、その評論によって小林秀雄の「自己」
を反射的に語る、評論というより高度な形で示す、という人間
なのである。その孤独な探求、「自己」を探るために他者を論
じるというコンセプトが『考えるヒント』以後、「強引に思想
を建設しようとして」、結果として小林は文化の教師にのよう
な存在となって、それが小林自身の変質を生じさせた、という
のが秋山駿の小林論の本質的主張なのだ。

 秋山は小林に、「普通の現実の中にいる普通の人間の普通の
生」の再構成を期待する。それはドストエフスキー論やゴッホ
論では小林は実行出来ていたという。だが、それ以後、小林は
それを怠った、というのだ。それで小林の主題は「歴史」と「
伝統」の二つになったという。その頃から小林はしきりに「常
識」という言葉をしきりに用いるようになった、という。これ
は最初は普通の人間の普通の生存という意味だったかも知れな
いが、小林はそれを自己の防衛の武器、あるいは小道具として
使い始め、「常識」が人間の「内的経験」といかに関連するか
を調べようとしなかった、「接ぎ木」のような「捻じれ」はこ
こから生じている、という。

 小林秀雄の文章より、秋山駿の文章のほうがむしろ難解に思
えてくるが、その言わんとする趣旨はなんとか理解したい。

 小林は思想家に転じようとした。もし小林を「純粋に自己自
身の魂の興味より、ヴァニティの方に一足先に出す人間」と評
した中原中也が生きていたら、質問と否定を繰り返し、小林が
こういうことにはならなかった、だろうと秋山は残念がる。

 そうだ、『魂と意匠』は実は中原中也の視点から論じられた
小林論かもしれない。だからかくも鋭く親身なのだろう。この
本の論述は中原中也由来、ということだ。

この記事へのコメント