人生にもある「未完成の美」、打ち捨てられて輝くもの

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 よく芸術などにおいて「未完成の美」というものが語られ
る。なんでも、そつなく仕上がっていたらいわけではない。
ただ最初から完成させる気もなく、ズボラにやって結果の
作品に「未完成の美」を認めてくれ、と云っても誰も相手に
してはくれないだろう。「未完成の美」と言えるには、そこ
に至る、真実の精神がなければならないだろう。ただ、これ
では曖昧、漠然過ぎてあまり意味をなさないが。

 そこで人生においても「未完成の美」を認めるべきという
のが私の常日頃の想いである。この社会での、通常の決めら
れたルートを歩まず、よく言えば荘子の「逍遥遊」に似た、
自在な人生を生きた場合、これは結果として「未完成の美」を
体現した人生と云えるのでは、と簡単に言うとバカバカしいと
一笑に付されてしまいそうだが、私としてはかなり大マジで、
この生き方を信奉してきたのである。

 社会から疎外され、仲間はずれされやすい、真の所属を生涯
持たない、人に利用され得ないほど無為無能に徹した生き方。
何も最初から無為無能で行こうと思うはずはない、誰だって、
学校時代から有能、他人から評価されようと思うものだが、現
実は甘くない。人から疎まれやすい人間は、あらゆる場面で、
やはり人から疎まれてしまう、テキパキ要領よく物事が出来な
い。学校時代は物理や科学で赤点を取ってしまう。受験では落
ちまくる、就職試験では失言をやらかして面接で落とされてし
まう。私はこういう人間に心底、同情せざるを得ないのである。
なぜなら、そのような要領も悪く、人から疎まれ、奮闘努力の
甲斐もなく無為無能は誰しも陥ってしまう可能性がある、いわ
ば人間の愛すべき、定位置であるからだ。・・・・・実は、も
しかして私のことをリフレインしたのかもしれない。何かなし
得たか、となると学ぶ点でも創造の点でもからっきし、およそ
なっていない。何もまだ真の意味で学んでもいない、まして僅
かでもいかなる創造もなし得ていない。これを「人生の未完成」
というなら「未完成」には違いないが、さらにそこに「未完成
の美」を認め得るか、である。どう考えても醜悪はあっても、
「美」はなさそうだ。・・・・・・だが、ふと考えてみる。醜悪
なものにこそ、美を認めることの精神の高揚された状態である。

 「未完成の美」それが人生における、「未完成の美」というな
ら、何かをなそうとした精神がこの地上に引きずったキズ跡こそ
がそれに該当するのではないか、ということだ。未完成の美、と
いうならエンドレスである。そこから新たな人生の展開をまた見
いだせる、ことになる。

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