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 黒澤明 1910~1998 、あの巨匠の映画監督の自伝である。
もとは週刊誌に連されたものを単行本化したもの、出版社が
「岩波書店」というのも、さすがの黒澤と云うべきか。聞く
ところでは国内で単行本化される前に英訳され、アメリカで
刊行されていたという。それほど、黒澤明は「世界のクロサ
ワ」なのである。

 黒澤明とは1910年、明治43年に東京の生まれ、私立の京華
中学を卒業後、画家となり、18歳で二科展入選を果たす。昭
和の初期で左翼運動の全盛期、左傾化を良心の義務とされて
いた時代であった。黒澤もプロレタリア絵画を描いていた。さ
らに非合法の政治活動にも参加し、特高の刑事に追われて逃げ
回った。東宝の助監督となったのは1936年、昭和11年、26歳の
ときである。ここまでがまあ、前半生である。

 黒澤の生い立ち、青春の回顧だが、この部分が面白い。大正
から昭和初期にかけての、興味ある時代描写、風俗描写となっ
ている。

 実は黒澤明は小学校低学年時代は、ちょっと知恵遅れとされ
ていた。実際、その傾向があった。教室でも他の子どもと離れ
ら場所に椅子と机を移動させられ、教師から「これは黒澤には
わかるはずがない」としばしな嘲笑され、子どもたちに笑われ
たという。ドッジボールをしたら、やたら集中攻撃され、これ
が不愉快で、雨の降っている表に捨てて教師に叱られた。不愉
快なものを捨ててなぜ悪いのか、分からなかった、という。か
くして(私もそうだったが)黒澤の小学校低学年時代は地獄の
責め苦だったのである。それで、その後、世界の黒澤になった
のだから、面白い。地獄が生涯続く子供が多いのにである。

 しかし小学校卒業式の答辞は総代で読まされるまでになった。
イヤな嫌いな教師が書いた原稿は、学校や教師を褒め称えるよ
うな美辞麗句ばかりだった。兄がそれを読んで、小学校を厳し
く批判する、教師を罵倒するような内容の答辞を書いてくれた。
黒澤明は兄の答辞に共感し、それを懐に入れて答辞の場に出た
のだが、遂に式場で兄の書いた答辞は読む勇気がなかった。家
に戻って父親から答辞を褒められた、兄はそれを見てニヤリと
笑った、という。

 黒澤明はこう書いている。「私は恥ずかしかった、私は卑怯
者だと思った」この気持ちが実は黒澤明の生涯を支配したので
ある。三つ子の魂百までとは云うが、その通りだった。その後、
映画監督になってからの黒澤の活動、言動を見るとそれを思わ
せるこものは多いだろう。

 後半は撮影所に入り、1951年「羅生門」でヴェニス映画祭
のグランプリ受賞など映画作りの話になる。裏話、交遊録など
はほとんどなく、山本嘉次郎監督など先輩監督から多くのもの
を学んだということが主な内容となっている。現場における、
教える者と教わる者の関係が真摯に述べられている。たしかに
黒澤の映画は師弟関係を描いたものもあるな、と思い出す。筆
致はいたって歯切れがよい。