石川淳『至福千年』1967、幕末に隠れキリシタンを仕込んで小説化、奇想天外だが話術だけしか残らない

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 稲垣足穂は川端康成は「千代紙細工だ、作家とは言えない」
と酷評したのだが、じゃ誰を誉めた?石川淳だろう。「まあ、
石川淳はちょっとうまいが」あの稲垣足穂が云うのである。
実際、石川淳の作品は個性が強い、というのか奇想天外だと感
じる。だから全部いいかと云えばそうでもないが、この『至福
千年』も奇想天外な作品だと思う。

 この作品は長編だ、時代は1858年(安政五年)11月から1864年
(元治元年)11月までの6年間である。安政の大獄に始まり、桜
田門外の変、坂下門外の変、生麦事件、天誅組の変、生野銀山
の変、蛤御門の変、長州征伐など、騒然たる時代を背景として
いる。だがこの時代を舞台は、数限りない歴史小説、大衆小説
で散々にテーマにされた時代だ。どう考えても手垢に汚れ過ぎ
ている。では石川淳は何を工夫したのか、だが、それはどうも
「隠れキリシタン」である。でも隠れキリシタンだって、それ
まで小説のテーマにされることが多かった。だが、幕末と隠れ
キリシタンの結合は、ありそうでなかった設定だろうか。

 だから隠れキリシタンが主人公となるのだが、中心人物は
ほぼ四人だろう。まず大久保に住む神宮加茂内記という人物、
忍法的な白狐の術を使う。さらに本所堅川に住む「松師」松太
夫という豪商、この二人がメインの主人公だろう。他に浅草堀
田原に住む東井源佐とう更紗の職人、変身の術をあやつり大盗
族じゃがたらの一角という人物。

 この四人は十数年前、長崎でキリスト教で結ばれた同志とい
うべき者たちだった。ところがその信仰路線の違いから、加茂
内記と松太夫が敵対していて犬猿の仲である。東井源左、じゃ
がたら一角は加茂内記の側についている。もうひとりの重要人
物が、今戸河岸の俳諧師、一字庵冬峨という御家人崩れのよう
な人物。この人物が、ある種の狂言回しの役割を果たす。

 幕末の社会混乱に乗じて、加茂内記は秘密の教団を結成、ヨ
ハネ黙示録に説かれているキリストの再臨とその勝利をこの地
に実現しようと日夜、腐心している。つまり「千年期」伝説の
実現のため、社会の底辺に漂う乞食、非人らを集め、教団を組
織しようというのだ。まずは幕府に天皇を討たせ、次は幕府を
撃滅して地上楽園を実現しようというのだ。

 松太夫はそのあまりにの非現実性に反対している。松太夫は
現実的な穏健な平和共存主義である。

 要は弾圧される異端のキリスト教信仰を現代の革命路線になぞ
らえた、というのだろうか。数多い幕末ものとは異質過ぎる作品
で石川淳らしいと云えばそれまでだが、石川淳でないと、こんな
奇怪な小説も書かないだろうとは思える。だがいかに贔屓目に見
ても石川淳の何を訴えたかったのか?という疑問はさっぱり、わ
からないのだ。表向きは奇想天外、最後は加茂内記は一角に殺ら
れ、一角は横浜に逃げ延びる、・・・・・要はなにか作品を書か
なければいけなかったから、石川話術でなんとでも誤魔化して、
一遍を仕上げる、だけなのかもしれない。

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