「わいせつ」(猥褻)自体は善でも悪でもない、いつまでも続く裁判所と警察の「法と道徳との混同」の悪習
この日本社会の、特に司法と警察における「わいせつ」への
態度は根本的な誤りと滑稽さを、結果としての社会的な不当な
抑圧となっている。事の本質は、「わいせつ」自体は決して、
善でもなければ悪でもない、わけである。それ自体を警察や裁
判所にとやかく云われる筋合いはまったくない、ということだ。
最高裁の実にもったいぶった「猥褻」の定義は
いたずらに性欲を興奮または刺激させ、かつ、普通人の正常
な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」
である。およそ、バカバカしい内容である。要はわかりやす
い言葉では、「エッチなこと」というにほぼ同じだろう。なら
「エッチ」なことは悪いのか?である。そりゃインモラルとは
云えても善でも悪でもないだろう。インモラル、不道徳の基準
は時代の流れで変わるだろうが、「善でも悪でもない」ことだ
けは確かである。
そりゃ、「エッチ」なことは性欲を興奮、刺激!させる、だが
それは、多くの場合、大きな効用を持ち得る。日々の楽しみ、
明日への活力にもなるし、ストレス解消にもなる。「善良な性的
道義観念」とは?最高裁の判事様にお伺いしたいものだが、それ
がどうした、である。
わいせつ、エッチなことは「それ自体」善でも悪でもない、こ
とだけは紛れもない真実である。いたずらに性欲を刺激も善でも
悪でもない、だが大きな意味を持つ、ことになりえる、だが、社
会的な公然性の妥当性を踏み越えれば大きな不快となる。例えば、
子どもの運動会である母親がヌードになったら、それは公然性の
妥当性を踏みにじっていることになる。だが、公然性の妥当性と
考えた場合、では「見に行きたいものだけが見るストリップの
露出過剰」などうだろうか、そのことによる被害者、直接にはい
ない、あまりに過大な料金を請求すればボッタクリになるが、そ
れもまあない。ではこの営業を認めることが、では、大きく社会
が受ける性風俗の被害、社会的被害が考えられるだろうか、これ
は「わいせつ」自体ではなく、どこまでも社会的な影響という意
味のみ問題となるだけである。基本的に、世界の状況を考え見て、
社会的な損害などない、といほかない。
では野坂昭如さんが「面白半分」に永井荷風作ともされる「
四畳半襖の下張り」を掲載、刑事訴追された、猥褻、関連の刑法
違反としてである。
それを文学的であれ、助平な好奇心で読むのであっれ、そのよ
うなことは全く自由としか云いようがないだろう。読みたい者だ
けが読むのである。内容は国家権力がとやかく云う筋合いではな
い。ないのだが、さしたる内容でもない。社会的公然の規範の逸
脱もないし、社会的な損害もあり得ない。その表現自体が「ワイ
セツ」だ、要は「エッチだ」けしからぬ、というのは法と道徳の
混同である。それにしても、それすら考える必要もない。
伊藤整の「チャタレイ夫人の恋人」翻訳、読みたいものが読む、
著名な文学作品だ、その表現で性的に刺激されようが、それを警察
がとやかくいう筋合いではない。読みたいものが読むのみ、しかも
この出版で社会の性風俗は極端に乱れるという社会的損害もあり得
ない。
要は直接の被害者がいるかどうか、社会的公然性で逸脱がない
か?街で頒布して見たくもない者に読ませようとする、などはない
のだからそれも問題ではないし、トータルでの社会的な損害も考え
られない。
「わいせつ」自体、善でもなければ悪でもない、国家権力があれ
これイチャモンを付ける筋合いではない、これだけのことだ。だが。
本来的な直接の「被害者」が存在する、公然性で、社会常識を踏み
超えている、大きく見て社会的な損害がある、なら国の介入もある
が、文学作品とか、また映画など、DVDなど、それらが暴力団の資
金源になっているなら社会的な損害が認められるから、取り締まれ
ばいい。ただ、カタギの会社なら問題となる道理もない、なぜなら
ば見たい人間が見るだけ、世界の潮流からして、その程度は常識だ
からである。
とにかく、ワイセツ論議では警察、司法の、善でも悪でもない、
ワイセツをそれ自体を悪=刑法に触れるという根本が誤ったスタン
スが続いている、というほかない。何かを混同しているのである。
基本的に国家権力が介入する筋合いでもないことを、国民統制の
手段として国が警察を使って利用している、ということだろう。
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