井上ひさし『自家製 文章読本』1984,建前の凡庸さを超えた本音の文章作法

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 これは1934年生まれの井上ひさしだから50歳のときの本、
それまでに実は既に『私家版 日本語文法』、戯曲『国語事
件殺人事件』などという、国語学、文法論へのこだわりを披
露していたが、つにもっとも書きたかった?「文章読本」を
刊行となった。或る意味、井上ひさしは、言葉の天才、魔術
師というべきか、専門の日本語学者にも引けを取らない日本
語論、文法論、日本語文章論のエキスパートというべきか。

 「文章読本」と云えば谷崎潤一郎が勇名で、その他にも
多くの「文章読本」がある、それ以外では中村真一郎、三島
由紀夫、丸谷才一などもあるようだ。著名なものは谷崎の「
文章読本」だろう。それらはみな、東大出の純文学、知性溢
れる!作家らばかりなのだが、それらから距離を保ち、「
自家製」という独自性を打ち出している。非常な意気込みで
書かれたものである。奢り、見下し視線とは無縁のざっくば
らん、からの容赦ない本質論だ。

 第一章「滑稽な冒険への旅立つ前に」、第二章「ことばの
列」にその意欲が現れている。

 第一、二章が見事な導入となって、第三章以下、「話すよ
うに書くな」、「透明文章の快」、「文間の問題」、「オノ
マトペ」で勢いが増す感じ、文章論には、すさまじいコダワ
リ、自負心があるようだ。

 「話すように書くな」はあちこちに見かける「話すように
書け」への強烈なアンチテーゼと云うべきか、作家の中でも
「話すように書け」という人もかなりいそうだ。明治の「言
文一致体」運動がその背景にある。それはその後も長く支持
されて、現代では椎名誠を旗手とする、「昭和軽薄体」にも
通じるようだ。

 だがしかし、と井上ひさしは云う、話し言葉と文語体は、大
きな違いがあり、お粥と赤飯ほどの違いがある、という。だか
ら例えば、マダムと自分の会話を録音してみたら分かるという。
話し言葉は否応無しに冗長で、無駄が多い。実際、話し言葉が
そのまま文章になるはずはない、むろん、戯曲はあるが。
 
 「透明度の怪」とは、「透明度が高い文章は名文である」と
いう考えへの疑念である。なぜ「透明度」が高い文章は名文と
いうのか、そもそもよくわからない部分がある。その支えとな
っているのは「言語=道具」説であるという。道具なら「透明」
な方がいい、志賀直哉、川端康成から野間宏に至るまで、「透
明」度が高い文章と賞賛されているのだ。

 ただどうにも「透明度が高い」があまり飾りのない、ことが
無条件にいいのかどうか、元来、修辞意識の働かない文章はあ
り得ない。いかに簡潔そうに見える文章も、直喩による習慣的
な混濁が仕組まれるという。

 「文間の問題」だが、つまり文と文とのつながりの話である。
多くの「文章読本」、文章作法の本が「接続詞は安易に使いす
ぎるな」と言いがちだが、実は、と井上さん、文間を積極的に
活かすべきではないのか、となかなか多彩な例を引いて論述さ
れている。

 私は文章こうあるべし、というより全て書く者の精神のありか
た、が混んていないると思える。文章作法、もあり得るとは思う
が、精神の推移、展開、その根底の情操のあり方が文章にほとば
しるだけであり、テクニックのレベルでは済まないと考える。

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