陳舜臣『敦煌への旅』講談社学術文庫、中国籍取得時代の政府招待の旅、その後日本籍取得へ

1976年に初版、1973年に陳舜臣さんは台湾籍から中国籍に
、1990年に日本籍を取得された。その中国籍時代の本である。
著者の一家四人は中国籍取得もあって、中国政府から招待
を受け、敦煌を旅した。1975年の夏だった。敦煌の探検は長
い歴史がある。日本については1957年に訪中考古視察団が入
って以来、全く日本人で敦煌へ入った者はいなかった、とい
う。したがって中国政府の文物保護がどうのようなものか、
大いに日本人の関心を呼んだわけである。井上靖の『敦煌』の
影響も大きかった。
敦煌は中国では全国重点文物保護単位、と日本で言うなら
国宝級の指定を受けていた。1963年から3年間、大々的な補
修を行い、あらたに十二窟が発掘された。莫高窟の石窟には
通し番号が付けられている。最初に番号をつけたのはペリオだ
が、戦時中は張大千が番号を改め、さらに共産党政府の制圧後
は敦煌文物研究所によって現在の標準番号がつけられた。新た
な発掘も含め、この1975年時点では492の石窟が確認されてい
た。
陳舜臣の一行は二日間にわたり、各年代の代表的な石窟を見
学して歩いたが、単なる見聞記ではなく、さまざまな感慨にひ
たり、敦煌の風土に溶け込むような味わいがある。
酒泉駅で列車を降り、三台のジープで西方に向かう、途中で
シルクロードを玄奘三蔵が1300年余前に通り、130年余前にはア
ヘン戦争で敗北し、罪に問われた林則徐が新疆に流されていく途
中、通ったことも思い出し、40年ほど前に張国寿の間違った指図
で、二万余りの紅軍が国民党に殲滅されたことまで回想するなど、
その中国の歴史への通暁はとうてい並の日本人では及ばないもの
だ。
このものを重層的に見る目は敦煌の千仏洞の見学の際にもフル
稼働し、アメリカのウォーナー博士らによって無謀にも持ち去ら
れた壁画、塑像にふれ、心底からの怒りから「西洋文明よ、奢る
なかれ」という叫びを生んでいる。文物の破壊、収奪は許される
ものではないということだ。
シルクロードはブームとなっていた。容易に踏み込めないエリ
アだけに神秘の感情が湧いてくるものだが、敦煌への旅も、陳舜
臣さんが読者に語り変かけるという風情で、まことに穏やかな筆
致である。
中国籍への転換への中国政府のご褒美、感謝のしるし、という
意味合いがあったのは紛れもない事実だ。陳舜臣さんも喜びは隠
せないようだ。あれこれと遠い過去の歴史に思いを馳せている、
がそれも1989年の天安門事件で中国政府への信頼は崩壊するので
ある。
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