竹内仁、激情過ぎた反大正教養主義の超批評家、許嫁の両親を殺害して自殺、片山伸の末弟

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 竹内仁(たけのうちまさる)1898年、四国の松山市生まれ、あ
の著名な批評家、片上伸の14歳下の末弟であるが、片上家から
竹内家に養子で入った。ということだが、なんだか書くのが
気が重くなる。それは許嫁の両親を殺害後、自殺を遂げたとい
うこともある。「阿部次郎氏の人格主義を難ず」という批評、
社会主義の立場から大正期の教養主義、文化主義を鋭く批判
した。ところで三島由紀夫は単なる自殺ではなく、日本刀で
自衛官を斬って重傷(ほんとに意外なほど重傷だった)を負わせ
手の自殺だから、殺人行為の後の自殺の竹内仁は共通点はある
。思想は全然異なるが。竹内仁は遺稿集が刊行されている。
批評家という共通点のせいか、平野謙がわりと研究していた
ようだ。

 竹内仁は大正11年、1922年11月に許嫁の両親を殺害し、そ
のまま自分も縊死を遂げた。享年24歳。結婚したくなくなっ
て殺したのではなく、許嫁の両親が婚約を解消するというの
に激昂して殺害に及んだわけである。となると、そこらにあり
がちな下世話な事件に思えてくるが、実は思想問題が絡んでい
たのだ。

 殺害事件当時、竹内仁は東大文学部倫理学科の学生だった。
仙台の旧制二高からの入学だった。だがすでに学生の身で大
正11年、1922年「新潮」誌上に阿部次郎の「人格主義」をマ
ルクス主義の立場から厳しく批判し、反論した阿部にさらな
る鋭い批判を加えた。一躍、若手の気鋭批評家として注目を
浴びた。だが、これが婚約解消へとつながった。

 許嫁の両親はいたって温厚なるクリスチャンだったが、そ
れゆえに過激なマルク州主義者の竹内仁をおおいに危険視し
たのは仕方がなかった。そんな男に娘は託せいない、という
ことになった。肝心の娘まで婚約解消に傾いていたという。
それで、であったが、

 ところが既に早稲田教授で著名な批評家として名声が確立
していた片上伸の末弟、14歳離れての、だが資質からいえば、
その論理、批評の鋭さは兄を上回るほどであり、学究的にも
正統派の道を歩んでいた。

 実は明治末年、片上伸らは阿部次郎、安倍能成らと朝日新聞
学芸欄で自然主義思想論争を行って一敗地にまみれた。

 竹内仁は阿部次郎らのアカデミックな学問的方法論をもって
逆に反撃し、また唐木順三らの大正教養派の陣営を打破しよう
としたようで、長兄の片上伸の敗北の復讐戦を行ったともいえ
る。

 といって竹内仁の内面、本音はしるすべもないが、いたって
内向的だった仁が内面に秘めた野望をもって華々しく思想、文
学界に進出し、順調の極みのはずが許嫁の両親殺害という激情
にかられての暴挙は解せぬものはある。社会革命思想に染まっ
ていたのは事実、その家庭レベルが殺人行為、なのか、謎めい
ている。

 竹内仁の暴走を時代的な悲劇として捉えたのは、秋田雨雀、
中野重治、小田切秀雄だったが、異常性格と捉えたのが、菊池
寛、近松秋江、大宅壮一だったといが、あの時代からもう大宅
壮一?か。むろん、時代的要素、異常性格要素は混ざっている
はずだが。それにしても、あんな暴走をやらなければ歴史的な
批評家となり得ていたはず、という惜しむ人も少なくなかった。

 臼井吉見の長編『安曇野』の中に仁の阿部次郎批判論文が、か
なりそっくり引用されているという。しかしどうも竹内仁の料簡
の狭さは否定しがたい、真の大成があったかどうか、疑問符は残
る。

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