云いたくないが、すっかり疲れが取れなくなった。持病の効用は否定できないが

奈良へ行って昨日は京都のホテルから帰った。大変なインバ
ウンド、特に白人が多い。また中国人もある程度、戻っている。
私は普段、ほとんど運動もしないし、歩くといって僅かなもの。
3km近く歩くなどほぼないから、近鉄奈良から志賀直哉旧居ま
で奈良公園をつきって一気に、は正直、私には負担が重かった
のだろうか。悪いことに絶食を続けていて、出発の前、朝食は
十分にという計画がタクシー騒動でオジャンとなったのが大き
かった。
高齢になっても登山という人は結構いるようだ。遭難も多い
が、やはり登山は心身の鍛錬ということだろう。私はスポーツ
経験といって早々とやめた。中学時代は1m70というハイジャン
の郡!記録まで樹立したのに中3三学期での急病、それが大病で
生涯の持病となってしまった。結果、闘病は長くなってしまい、
半世紀をはるかに超えている。でも持病のせいで、それ以外の苦
しみへの意識が何か希薄化された、という皮肉な持病の効用はあ
った。もし、健康体そのものなら、と考えただけで怖ろしいもの
がある。人間はさしたる病気もなく、体調も良ければ、未来永久
に生きられるような錯覚を抱いてしまう。先々の余計な心配、思
惑に心かき乱されることになる。体調の悪さは先々の心配をあま
りしなくなる。まず、今を生きることだけ、だけに精神が向かう
ものだから。
つくづく、自分自身の数奇な運命もお陰で相当緩和されている。
体調の管理だけに意識が向かうからだ。生涯、徹底して私に辛く
当たり続けた「母親」、
母親とは?私の場合だが、「普通の人が何百万回、生を享けて
も決して一回も口にしないだろう、下劣で邪悪な言葉を生涯で何
百万回も口にしてそれを当然視し、最後まで一度も反省しなかっ
たような人間」という表現ができるし、「宇宙開闢以来の悪意と
邪悪を煮詰めたような人間」、・・・・・・実際、私も宇宙開闢
以来の悪意を煮詰めるとどうなるのか、わからないのだが、そう
とでも表現するしかない「母親」であった。長く遠方から母の介
護、費用負担もやって通い続けて、最後の投げつけられた言葉が
「殺す」だから、本当に私への憎悪という本能が最後に復活した
かのようで、さすがに私もこれで最終的に縁が切れたと思った。
その後はどうなったかよく分からない。最後が原点回帰だったわ
けだろう。次男である私への煮えたぎる憎悪に支配された、あま
りに異常な生涯、だった。ちょっと、まずこの世ではあり得ない
レベルである。ただ私が幼い頃から「母親」から「殺す」発言は
数限りなく投げつけられていた。誰に対しても下品でがさつだが、
殺す、は私にしか云わなかった。私が世話を始めてからは収まっ
ていたが、最後、93歳にもなろうという時点でまたしてもであっ
た。「母親」がこれだから、頼る人間は自分だけという意識だっ
たのは否めない。
そんなとんでもない不条理にさいなまれた私は、むしろ持病が
救いとなった、というと皮肉だが、そういう一面も否定はできな
い。
ともかく、疲れが取れないのは、いつにない長歩きもあったせ
いだろう、本当に体力がない私である。週末にはまた大阪なので
、これは日帰りだが雑踏の中、無理なくクリアーしたい。
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