朝比奈宗源『欧米雲水記』1955,後の「日本を守る国民会議」代表の欧米体験、禅僧とは思えぬ視野、考えの狭さ、

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 最近は第二次安倍政権成立後のような、「日本会議」につい
ての記事、報道がない。日本会議の狂信を上回る、世界的な「
新型コロナ騒動、ワクチン騒動」や「CO2悪玉論の脱炭素ドグマ」
が圧倒的に席巻したせいもあるかもしれないし、安倍政権自体が
消滅、安倍晋三もこの世から消え去ってダメ押しされた、という
ことだろうか。その「日本会議」なお健在の「日本会議」の生み
の親的存在、(もっとも日本会議は生長の家の青年部が造り上げた
最大の要素だが)の1955年当時既に円覚寺派管長だった朝比奈宗源
である。その頃の朝比奈宗源の考え、ものの見方が果たして後の
「日本会議」に通じるものがどれほど、あるだろうか、が窺える、
いうならば貴重な本である。入手難だから内容を紹介だけで価値
がある。

 朝比奈宗源とは明治24年、1891年静岡県生れ、12歳で得度、妙
心寺、円覚寺で修行。日大宗教科卒業、円覚寺派管長、浄智寺住職
。戦時中は大陸、南方で布教活動。1954年、ヨーロッパ訪問。円覚
寺内居住。当時の紹介。1979年没。

 「アメリカの宗教や教育を視察研究し、日本の文化や思想の紹介
をして、両国の理解と親善を増進する」ためにアメリカ国務省から
渡米の要請を受けたが、著者(朝比奈)は「私はろくに英語ができな
い。日本の貴重な外貨を使いたくない、私はアメリカにに行っても、
アメリカ人の気に入らないことを云うだろう。それでもいいか」と
国務省担当に問うた。交渉に来た領事がそれら条件を承諾、その結
果、朝比奈は1954年4月末に羽田を発ち、二ヶ月あまり北米各地を
視察した。帰途、ヨーロッパ各国とインドを訪問、7月末に帰国。

 禅僧の旅だが、二世とかって日本留学の韓国人を通訳として名所
、史跡を観光、さらに学校、刑務所、警察、宗教団体を視察し、
政治家、学者、思想家などと面会し、意見を交換した。だから行雲
流水の旅ではなく、異国の塵埃に接し、政治を慨嘆し、経済を憂い、
平和を論じた旅である。

 旅行中は丹念に絵葉書を買い、故国への通信に専念した。ボンで
は「今日は暇があって絵葉書は60余枚出す。全てエアメールである。
一通が70ペンス、日本の70円に相当」。

 実は重要な点、気温でシャツを脱いだり着たり、毎朝、三里の灸
を脚と腕に据える。他の旅行者のように買い物はしない。ただロン
ドンでレインコートを一枚買った。「私が和服で外国の既製品の外
套を着るのもどうかと思われるかもしれないが、薄い夏の和服なら
袖をしぼれば楽に着れる」からだという。

 宗教家の旅行記として読めば、ちょっと内容に深みも滋味もない。
しかし、幸福そうな明るそうな人を見た後で刑務所でうつろな顔をし
ている男を見て、朝比奈が目に涙をため、「アイムソーリー」と云っ
た話。葬儀社で豪華な棺を見て、再使用するのかと聞いたら逆に「
棺の再使用が法律で禁止されていると聞かされ、感心した話。

 訪問して会った人は多くが、来日経験がある外国人、特に禅に関心
の深い人、それに訪問国にいる日本人、日系人など。アメリカ人女性
、白人女性を妻とするのは幸福なのか、と朝比奈が問うと、それに答
えて「私はまだいいが、やはり日本人は日本人どうしがいい」と。朝
比奈は戦争花嫁で渡米した日本女性の結果がよくないことを聞かされ
る。

 オークランドで白人主催のグノーシス系教会で講演した朝比奈は
「もし領土保有の正当性が先占の原理と言うなら、アメリカ大陸の
領有はインディアンこそ正当となる」とアメリカ人の反省も求めた。
通訳がためらうと「云ったとおりに英語にしろ」と命じ、逆に喝采
を浴びた話。「誠実な主張に国境はないと感じた」とある。

 事実の誤りは多い、だがどうもその後の「日本会議」に通じるの
だが、禅僧と思えばあまりに見方が狭い、考えに幅がない、深さが
ないと云うべき。朝比奈は「私は日本の田舎者だ」というが、田舎
者であろうがなかろうが、もっと真摯に深くその風俗習慣を見るこ
といができないのかという疑問だ。のちに国粋主義の「日本を守る
国民会議」の代表?になったという素地はすでに見え隠れする。私
はこの人物、どう見ても「日蓮宗」の方が似合っていると感じる。

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