大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』、破滅に瀕する男とそれを救う女、現代の黙示録になり得たか?

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 大江健三郎さんの代表作となったこの作品だが、ちょっと
読むと実の自在、自由の乱用のようであるが、そこに暗示され
るものは、云うならば現代の「黙示録」とも捉えられる。だが
「ヨハネ黙示録」の解釈がさまざまに噴出したように、この大
江作品をどう捉えるか、野放図に見えて難解な作品で「楽しむ」
からほど遠い小説だろう。連作短編集である。『頭のいい「雨
の木」』、『「雨の木」を聴く女たち』、『「雨の木」の首吊
り男』、『さかさまに立つ「雨の木」』、『泳ぐ男、ー水の中
の「雨の木」』からなる。

 難しいことを考えるのは批評家に任せればいい、やはり大江
さん自身の体験が相当部分、ベースにあることは間違いない。
まず、「雨の木」に「僕」が出会ったのは、ハワイの東西文化
交流セミナーの折、セミナーのスポンサーの一人、ドイツ系の
女性アガーテが、彼女の主宰の精神障害者施設で開いたパーテ
ィーのときだった。それは夜の空間に「水の匂いがする暗闇」
としてあった。このアガーテも見た目には、衛生的で、いたっ
て清教徒的に思えたのだが、しかしその内部には鬱屈した複雑
な情念が「とぐろ」を巻いていること、パーティーそのものが
実は精神障害者たちの「叛乱」の中に組み込まれていたことが
分かった。

 と黙示録的なのだが、この小説がさらに黙示録的になるのは、
「僕」の大学時代の友人で、今となれば一種の性格破綻者にな
っている「高安カッチャン」とその妻の香港系アメリカ人、ペ
ニーが登場してからだ。第二次大戦後、さっそくフォークナー
の講義を聞くため渡米したカッチャンは鋭敏な才能の持ち主で
あったが、文学的野心は打ち砕かれ、ハワイに煩悶の日々を送っ
ている。そのカッチャンとペニーが深夜に「僕」を訪問する。カ
ッチャンは「僕」にペニーを抱けなどという。「僕」は断ると、
やおら眼前で二人は性行為を行う、でそのペニーとはマルカム・
ラウリーという作家を研究している、相当に知的な女性であり、
カッチャンの言いなりになっている。それも彼をなんとか再起
させようと考えたからである。

 この連作短編集で「僕」がメキシコの大学で教えていたとき
に世話になった日本文学研究家のカルロスを中心にしていく。
それもいわば間奏曲であり、再び高安カッチャンの死を巡る話
が、ハワイでの反核運動にかかわる日本人の屈折した姿との交
錯の中で描かれる。

 など、内容は通常の文芸的な雰囲気とは大きく異なる、最後
の短編、『泳ぐ男、ー水の中の雨の木』、これはスイミングク
ラブで「僕」が知り合った一人のOLを巡る猟奇的な殺人事件、
なにか荒唐無稽の極みのようだし、人物も設定も前の短編とほ
ぼ無関係なのだが、実はここが重要な点で、危機的状況の中で
の男の破綻を献身的に支える女、というこの連作のテーマが、こ
の短編では性と暴力という点に絞られて描き出されていると思う。
読むと驚愕ということだろう。

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