池波正太郎『青春忘れもの』1969,ケレン味ない庶民派の半自叙伝

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 大衆文学作家の大御所ともなった池波正太郎の半自叙伝で
ある。大衆文学は日本では不当に低く評価されがちだが、時代
歴史小説を見事に仕上げるための努力は純文学を書く以上に至
難だろう。・・・・・さて、大衆文学作家も半生記を書いた作
家は少なくないと思う。吉川英治の『忘れ残りの記』長谷川伸
の『新コ半代記載』などはその代表的なものだろうか。ただそ
の執筆年齢は吉川英治が63歳、長谷川伸が65歳に対し、1923年
生まれの池波正太郎はこの本を45歳のとき出している。大衆文
学作家の人生行路は平坦ではないものだ。エリートコースを歩
いた純文学作家と大いに異なるものだ。戦後派でも松本清張の
『半生の記』黒岩重吾の『どぼらや人生』、水上勉の『雁帰る』
など、いずれも人生の遍歴はまさに紆余曲折、不遇との戦い、
それがやはり作品にも活きていると考えるべきだろうか。

 さて、池波正太郎は関東大震災の年に浅草で生まれている。
まあ、下町っ子、チャキチャキ江戸っ子だろう。父親の富治郎は、
少年時代から日本橋の錦糸町の綿糸問屋を勤め上げ、通い番頭に
まで昇進したが、その店が倒産、思わぬ変転を歩むことになった。

 母の鈴は浅草馬道の錺(かざり)職の娘、上の伯母は吉原仲之
町の老妓、下の伯母もやはり仲之町で引手茶屋、叔母も歌舞伎座
で小鼓を打っていた望月長太郎に嫁入り、という環境もあってか、
正太郎は幼い頃から劇場に親しんだ。後に新国劇の座付き作者の
ような存在になったのも、なるほど納得できる。

 父は仕事が破綻し、離婚、正太郎は鏑木清方の弟子になろうと
いう、かすかな希望も持っていた正太郎だが、夢は叶わず13歳か
ら奉公に出た。その後、兜町の株屋で働く、「手張り」を覚えて
思わぬ大金を得る。芝居や映画、また食道楽、歌舞伎好きゆえの
長唄の稽古、さらに吉原に馴染みの女も出来た。

 とはいえ、そのような生活を捨て、国民勤労訓練所に入り、立
派な機械工となった。応召され、武山海兵団で新兵教育を受け、
やがて海軍の801航空隊へ配属された。このあたりから面目を一新
し、戦後は東京都職員として保健所勤務の傍ら、長谷川伸に師事す
る。起伏に富む人生だが、暗さは微塵も感じられない。カラッとし
てケレン味がない、というべきである。

 

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