重光葵『巣鴨日記』1953、青天の霹靂だったA級戦犯訴追

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 重光葵、しげみつまもる、はソ連の強硬な意見もあって東京
裁判でA級戦犯で訴追された。まず誰しも戦犯として訴追など
されず、またもし訴追されても無罪と予測されていた。その意
味で重光葵については訴追は疑念が残る。本書は、重光がA級
戦犯として起訴されてから、市ヶ谷での極東国際軍事裁判(東
京裁判)で七年の禁固刑という有罪判決を言い渡されるまでの
日記である。

 有罪だったが刑としては軽く、裁判中は、無罪判決が予想され
ていただけに、有罪自体が人を驚かせた。むろん、戦時下、東条
内閣の外務大臣など要職をこなしたという、その責任上やむなし、
との考えはあるが。裁判中は重光の精神も余裕があり、かなり客
観的に獄中の様子を書き込んでいる。

 収録の自作の漢詩や短歌、俳句などは当時の重光には、なんと
いうべきか、偽らざる心境の吐露であり、捨てるに忍びなかった
、ということか、読む側からすれば、あまり価値もない気がする。
率直で具体的な記述が記録的にも価値がある。そこに他のA級戦
犯の人々の言動、その精神のあり様が多く述べられている。これ
は貴重だ。

 重光は最初、最初から東京裁判を、モスクワで見たブハーリン
やルコフの粛清裁判ににていると感じ、米国式のようでいて「裁
判の公平と被告取り扱いの公正とは、彼らの極力世界に宣伝する
所なるも、裁判が勝者の敗者への懲罰たることは最初より明白な
り」と断じている。

 裁判が始まり、主席検事の論告があった日、「裁判は既に結論
をもつ国際的合意あるものの如し。宣伝芝居の観深し。果たして
之によりて文明は救われ平和は将来に確保せらるべきや」と疑念
を呈する。

 そのような重光も囚人同然の生活は大いに困り、不満を感じて
いたが、南京事件の発言を聞くと「醜態耳を蔽はしむ。日本魂腐
れるか」とか、「法廷支那人証人二人、南京占領日本軍の非行を
立証、その叙述、惨酷を含む。嗚呼聖戦」と憤るが、さらに比島
での残虐行為が続くに及んでは頭を垂れるしかなかった様子だ。

 他方で憲法発布の日、「新憲法は理想的な民主主義的憲法で、
さらに軍備を廃して戦争を否認するは、羹に懲りて膾を吹くの類
か」と書いて、「米英とソ連都の歩み寄りなど、果たして可能で
あろうか」、「ソ連にしたら戦争も平和も戦術であり、手段であ
る」と云う。「日本は宜しく思想的に、文化的に、科学的に又、
経済的に政治的にアジアの灯台となるべく心がけて進まねばなら
ぬ」とも。

 獄中の待遇は、重光らを満足させるどころか、あとになるほど、
厳しくなったようだ。「巣鴨大学は冷静な殉教者的な神経を養成
する目的のためには斎場の学校である」と自嘲している。アメリ
カ監視兵mの無作法にも不快を感じるが、また同じく軍人の同囚
の無作法にも眉をひそけている。弁護費用調達に絶望的な苦心を
している。結審が近くなると、弁護人、検事の態度にも神経を使
い、さすがの重光も苛立ってくる。隣室の平沼騏一郎が夜中「突
然、異様な奇声を発し、泣き出して監視兵を慌てさせる」などの
記述もある。

 ともかく、重光は同囚と国際問題、政治問題を論じている。は
じめは不起訴と思っていたが、ソ連の横槍で逮捕され、訴追され
たということに、あからさまな不満は述べていないが、自然と反
ソ的になったのは仕方がない所。

 出所後、改進党総裁に就任、憲法改正、自衛軍創設を党是とした
のも偶然ではないということだ。

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