松永伍一『ふるさと考』1975,詩人が咆哮、け日本人の甘い故郷観の打破
ふるさと、故郷は急速に消えつつある。あらゆるものは消え
さろうとしている。私にとって故郷はもうないも同然だ。苦渋
な記憶、もう近親もいなくなった、済んでいた家も取り壊され、
全く別の人が住んでいる。もう私を知る人もほぼいない。・・
・・・・この本は日本古来と云っていい、「甘い故郷観」を激
しく問い詰める故郷への痛撃である。
やれ「自然を取り戻そう」とか「日本人の心を再発見しよう」
などという「懐かしの愛おしい故郷」的思考、ふるさとを思う心、
望郷の念は当たり前なようでいて、実に深い疑念を抱かせる。も
う実は多くの人に、この本、1975年当時でさえ、「ふるさと」の
実態は消えていく過程にあった。だから逆に、その「ふるさと」
が仮想的な屈折した心情を孕むものだs.
この本は貴重だ、そういう誰も言いそうでなかなか明言しなか
った、到底、一筋縄ではいかない、多くの問題を考えている。
つまり著者、松永伍一、吸収は福岡県、八女高校卒の松永によれ
ば、ふるさとは何よりも自分の過去からの「尾を引く」ものであり、
「逃げたれない負債」だという。そのような、ふるさとの呪縛は、
多くの昭和初期の左翼活動家たちに転向の道を歩ませたという。だ
が転向を拒否した詩人も「ふるさとの味噌汁が欲しい」だから問題
の根っこは深い。
だが古代人の故郷観からして、まったくもって単純素朴で花ない
すでに王権の支持につながる「国を褒める歌」に現れるものや、国
家意識の原点をもつものもある「古代人の故郷観」や、落人の話に
みられる、故郷喪失者、ハイマートローザーの幻想を扱った「流離
譚と幻郷」、出色は「ジャガタラお春とジュリア」ジャカルタでの
激しい望郷の念を綴ったジャガタラお春と、小西行長が朝鮮から俘
囚として連れてき多少女ジュリアの数奇なる運命、これも「ふるさ
と」の視点としてユニークだ。
「文部省唱歌の欺瞞」、「望郷詩の翳り」これらも鋭いと思う。
文部省唱歌の毒気のない故郷感の醸成、みなそうだった。「望郷
詩の翳り」は宮崎湖処子の「帰省」や萩原朔太郎の「郷土望郷詩」、
山村暮鳥の「故郷にかへった時」、木山捷平「母」、などの作品を
取り上げ、日本人の甘い故郷観の革新を訴えている。故郷とは「撃
たれるべき故郷」としての認識を重要とするようだ。
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