宮城音弥『人間診断』1954,心理学などやっても人間の理解の何の足しにもならないという証明

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 人の心理、心理を精神と同一とみなせないだろうが、基本は
共通だろうか。なら心理学者の宮城音弥とドストエフスキーは
どちらは人間塔物をというものを理解できるのか、と考えたら、
圧倒的にドストエフスキーだろう、心理学ほど凡そつまらぬも
のはないと思う。精神医学とまた共通部分は多いから精神医学
など学んでも人間など理解できないということだ。

 で、この本、1954年とふるいが宮城音也にしてはやや異色か
もしれない。短いエッセイが五部に分かれて収録されているのだ。
この本のタイトルはその第二部によっている。光クラブの学生社
長の山崎や慶応での半ギャング、正田昭、霊友会の女性教主、小
谷喜美、はたまたヒトラーなども登場するが、「心理学」で本当
にその人間の洞察ができるか、となると決まりきったステレオタ
イプ的な類別に終始する。ヒトラーについての記述は戦後、フラ
ンスの雑誌に発表された「ヒトラーとの12年」という女性秘書の
書いたものに依存しているという。敗戦前のヒトラーは半狂人
だったという、手足が震えてしまう。思考力は減退し、無表情に。

 精神分析、社会心理学というものが日本に広まったのは戦後の
ことであるが、ではそれを適用してあのような人物たちをどう描く
のか。だが全く、読みでがない、本当に無内容と云うべきだ。著者
の落ちの付け方は、心理学の方法なのか、いつも同じようなものだ
。心理学の無味乾燥な概念に当てはめて終わる。分裂質とか、偏執
病とかヒステリーがどうのこうのとか、心理学の概念用語を持ち出
して終わる。それじゃ、心理学の自己満足で終わって何の説明にも
ならず洞察もないということだろう。わかりきったことを、くどく
ど述べるのみ。

 どこまでも進学者としてのものの見方、記述ということだが、こ
れはつまらない、得るものもない。他方で葛西善蔵について「私小
説の心理学」のほうがまだ面白い。「小説は詩でもなく科学でもな
いからつまらない」と宮城は云う、冷ややかな手つきで葛西善蔵の
作品を分析している。日本の私小説も、ベートーヴェンのシンフォ
ニーも、ともに芸術家の内閉性の産物だが、前者に夢も幻想もない
のあ、それは「富める内閉性」ではなく「貧しき内閉性」の産物だ
からという。

 まあ心理学者の立場を離れて一人の文化人としての発言もある。
「他人に迷惑をかけない限り、何をやろうが自由」と考えるのが民
主主義だという。その立場から逆コース、住宅問題、左翼過激思想
などを論じる。でも、あまりに凡庸な当たり前の内容だ。いろいろ
書いているが何の深みも洞察も感じられない。わざわざ出版に値す
る本ではない。

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