司馬遼太郎『世に棲む日日』維新の激動期の長州人、特に松陰と晋作を描く。司馬流の歴史解釈が光る
ちょっと奇妙なタイトルである。内容とはかけ離れて、いる
と云っていい。だが歴史小説として読めば唸らせる。司馬遼太
郎の歴史小説は、維新前後を取り上げたものが非常に多い。
「長州の人間のことを書きたいと思う」と『世に棲む日日』
はこのような言葉で始められている。実際、司馬さんが毛利家
36万石の城下町だった萩を訪れて、その町並みの至る所に残さ
れている維新の志士達の旧址を見て、維新の起爆力となった長
州とはいかなるものだったのか、その志士たちの思想と行動を
探りたいとの思いにかられたのも、また自然というものである。
司馬さんはこの作品を執筆するまで、数回、この日本海岸の
城下町を訪れたという。吉田松陰の生まれた松本村、そこには
また松陰、久坂玄瑞、高杉晋作の墓もある、から筆を起こして
いるが、いわばその長州の、長州人の幕末の変革期の秘密を、
歴史の流れの中で描いてみようと試みたのである。
私は到底無理な話、としても明治天皇となった長州藩で後醍
醐天皇の血を引く大室寅之祐も描ききってほしかった、がこれ
を書けば作家生命を失いかねない、との不安でそれは果たせな
かったともう。名のしれた人でこれを取り上げた作家も歴史家
もいない。
松下村塾を開き、思想の高揚を目指した吉田松陰とその後継者
であり、松陰の変革への理念を革命行動にまで煮詰めた高杉晋作
を中心に展開してゆく。
作品では松陰と高杉晋作との違いを述べ、「思想とは本来、人
間が考え出した虚構である」と言い放つくだりがある。これは、
見事な歴史認識ではないか。思想で飯を食う思想家にはこうは書
けない。松陰は、自らが蚕が糸をはきだすように、日本国家論と
いう虚構、危険な虚構を作り出した。それを論理化し、完成させ、
その虚構ゆえというべきか、死に、死ぬことで自らの虚構を後世
に伝え、後世を支配した。そのアジアへの侵略主義的思想は明治
から終戦までの日本を支配した。田布施王朝たる明治天皇からの
天皇家がアジア侵略とともにあった、というのは大きな悲劇であ
る。
対して高杉晋作は非常に直感に優れた現実主義者だった。無理
なく現実を見た人物と司馬さんは解釈している。その現実主義者
がやがては長州を過激な攘夷主義に駆り立て、幕末のぎりぎりの
時期まで状況を激化させる策謀家になるのだから歴史の妙だろう。
だが晋作は権力欲のない、冷めた人物であった。
長州藩は幕末の激動期、最大の変革の勢力となった。明治から
の天皇はそれまでの天皇とは全く意味が異なる。近代政府と呼応
し、判断できなければならない、長州藩子飼いの吉野朝のひとり
の若者、大室寅之祐が明治天皇になったのは当然であった。
長州藩は封建時代を終焉させた。その火付け役は、吉田松陰で
ある。松陰は松下村塾を開いた当時、自身が27歳の書生でしかな
かった。
面長の薄痘痕の、国粋的な思想に固まった若者が、なぜそれほ
どの重大な影響を歴史に与えたのか、司馬さんはそれに挑んだ。
その謎を解明しながら、一面、楽天的で死に至るまで絶望を知ら
なかった松陰という人物hが「長州藩によって純粋培養」されて
いく過程を、九州、江戸、東北と遊学を重ねるその経過で辿る。
また高杉晋作は安政の大獄で死んだ松陰の、その死から出発し、
攘夷という狂気を持って国民的統合を盛り上げ、その総力を結集
し、倒幕へ向かうその歴史の流れ、日本改造の思想を打ち出した
思想家と、それを継承しつつ、革命にまで発展させた現実主義の
晋作、その対比をとおして歴史が躍動を持って描かれている。
リアリズムではなく、司馬さんの歴史解釈、人間探求が中心であ
る。「物事の原理性に忠実である以上は、その行動は狂気になら
ざるを得ない」という「狂」のありかたを司馬さんは解釈を試み
る。ただ司馬さんの歴史小説、見たことを書くわけでないから仕
方ないが、史料の引用、歴史解釈の記述が多く、それを「面白く
ない」と感じる読者が多い、のも事実である。
確かに歴史小説、解釈的な意味合いで窮極だろう。
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