松本清張『風の息』1974,「もく星号」事故を描く、無関係なエピソードで小説化しているが真相には全く迫れず


 1952年、昭和27年4月9日の日航もく星号の遭難事故、それは
墜落とは云えない状況だった。当日、午前7時34分に羽田を離陸、
大阪経由で福岡行、それが離陸して20分後に消息を絶ってしま
った。翌朝、伊豆大島の三原山噴火口近くの山麓でバラバラの
機体、またそれほど損壊のない遺体が発見された。乗客33名、
乗員4人がすべて死亡した。戦後発足の民間航空機で始めての大
事故となった。八幡製鐵社長、三鬼隆、漫談家の大辻司郎など
著名人が数多く登場していた。

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 その真相は?最も新しい節では「日録20世紀 1952」に掲載
されていたもので「もく星号」操縦士を羽田空港で車で航空機
まで送った日本人運転手の証言、戦前は陸軍パイロットだった
というが、「死ぬ前に真実を述べたい。送り届けたスチュワー
ト機長は完全に泥酔していてロレツが回らないほどだった」わり
と最近まで民間航空機パイロットの飲酒操縦は常習的に行われ、
その結果の重大事故も多かったから、まずこの証言は間違いない
し、捏造の証言をその運転手だった人が語るはずもない。

 その証言以前の作品ということである。

 
事故については多くの不審な点が浮かんだ。多くの虚偽のニュー
ス、発見前に遠州灘に不時着し、全員救助されたとか、そこで大
辻司郎の架空の記事、が平和博の開催中の長崎の新聞に載ったこ
と、一旦は国民を安堵させた後に、完全否定されたこと。まだ占
領下の日本、情報は完全にアメリカが独占だった。

 松本清張は戦後、主に昭和20年代に起こった謎めいた事件を「
日本の黒い霧」として作品化して発表している。その中にも「も
く星号遭難事件」もあった。清張はいくつかの憶測にふれて、
「もく星号」の遭難の原因はジョンソン基地の管制員が高度の指
示を誤って伝えたからではないかとし、米軍の権威の失墜をカバー
するために、捜索の眼を一時的に他にそらさせ、故意に誤情報を
流した、というものだ。松本清張は何でも米軍、米国絡みの謀略
とする癖がある。もく星号事故もそうだと云いたかったわけであ
る。

 ただどうにも真相を追求は無理なはなしで、具体的な決定的証言
言でも得ない限りは、である。

 面白いのは小説めいたエピソードだ。阿佐ヶ谷駅近くの蒼古堂と
いう古書店主人、中浜宗介は一人の女性が売りに来た航空関係の古
書をめくって「もく星号」に関心を持ち、常連客でもあった新聞の
論説委員の伊東も同じくだったので、その調査を思い立った。さら
に宗介の俳句仲間の大学院生の小枝が三原山でブローチを拾ったこ
とから、「もく星号」唯一の女性乗客の、相善八重子の、もしや所
持品ではないかと思い立ち、もしそうなら遺族に渡そうと思って小
枝も宗介の調査に参加した。

 相善八重子は日銀ダイヤの謎にからむ運び屋だった、との疑いも
あり、彼女の身許をあらううちに、墜落の原因、誤報の出所など、
いくつかの事件の核心に迫る、が何分関係者の口も固くて真相は容
易にわからない。米軍機の仮想標的とされて不時着した、との推理
もあくまで清張の想像である。まず真相はスチュワート操縦士の過
度の飲酒であろう。しかし作品化しなければならず、およそ真相か
らは関係なさそうなエピソードで苦心の小説化である。

 スチュワート機長
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