15年戦争で極度の貧困化、物資不足、食料不足をきたした日本。日清、日露戦争でも例がない困窮、実は戦争どころでなかった日本
実際、明治以降、日本は戦争に次ぐ戦争であった。だが最後
の15年戦争ほど、日本は物資不足、食料不足をきたした時代は
かってないと云える。それは日清、日露の戦争の時でもおよそ
想像がつかないレベルだった。対米戦争は1941年12月からだが、
物資不足、品物不足、食料不足は日中戦争の頃から完璧に顕在化
していた。「代用品」が多くなるのは日中戦争が本格化、泥沼化
しはじめた昭和10年、1935年頃から顕著になった、それまでの日
本、戦争は幾度か行ったが「代用品」の大々的な強制というよう
な時代はまったくなかった。
もとより戦前の日本は基本、貧しかった。現在のように会社と
云うものが数多くあり、活発な経済活動というにはほどとおく、
何よりも遅れた経済のせいだが、お金というもの自体がそれほど
出回っているわけでなかった。農村は東北を中心に困窮し、いく
ら天皇制皇国を謳ってもお話にならぬ、貧しさは軍隊にファッショ
的革新を促したわけである。
その元来貧しい、昭和期に入ってますます低迷の日本経済が、
中国との戦争を本格化させるうち、極度の貧困化が生じた。なん
ら地道な経済建設にならない戦争にすべてを注ぐという体制が、
貧しい日本をさらにまず属し、早々と「代用品」国家になったの
は日中戦争開始後、あまり時を経ずしてである。経済活動に本来
は従事すべき若年、壮年の男子がことごとく次々に戦争に駆り出
され、農業がまず崩壊し、食料不足を生んだ。
1931年、昭和6年に始まった満州事変、翌年の上海事変で陸軍
は軍拡体制に入った。満州への派遣兵力は1933年末までに5師
団と5混成旅団、2個騎兵旅団上海への出動兵力は3個師団、
1個混成師団とのっけから莫大な兵力を派遣した。日中戦争の
本格化に伴い、陸海軍とも動員兵力は増大の一途、1938年に130
万人を超え、1941年には240万人を超えた。1943年には360万人、
1944年は539万人、敗戦の1945年には716万人に達した。
ベトナム戦争最盛期、米軍がベトナムに派遣した最大の兵員が
50万人だから、いかに中国への日本軍の兵力の派遣がすさまじか
ったかである。1945年、17歳以上、45歳未満で日本国籍の男子の
総数は1740万人だっらからその40%以上が動員されたのである。
対米戦争開始以降も兵力の圧倒的大多数は中国にあったのである。
日中戦争開始後、物資も食料も全く乏しくなった。荒畑寒村の
『寒村自伝』によれば
寒村が馬場孤蝶を見舞ったところ、
「荒畑くん、昔から敵を兵糧攻めにするとは云うが、新聞ラジオ
では勝った、勝ったの大騒ぎだが、自国の国民が逆に兵糧攻めにあ
っているなんて話を聞いたことはあるかい?実にバカバカしくて、
こんな世の中に生きていたいとは思わないよ」
日付は1940年、昭和15年6月22日である。だがこの頃はまだ食糧
事情は良かった、というのだ。『寒村戦中日誌』昭和18年12月5日
「いま僕の部屋に姉からもらった干し芋が二切れ、山川くんから
貰ったふかし芋が若干、鈴木くんがくれた干芋も少し、食い物があ
るのは心強い」・・・・・たったこれだけで「心強い」のだから、
どんなご時世か分かるものだ。
親の体験談を思い出しても、芋の、本体ではなく芋の葉っぱ、な
をも食べていたという。米はとぼしく、毎食が水に浮かした粥にな
ったとか、原型を止めない僅かな米と僅かに浮いている菜っ葉、と
塩味の粥、はっきり云えば縄文時代以前に戻った15年戦争下の日本
だった。
親の祖母は長年、歯磨きは塩を使っていた。15年戦争下では食
いものだけではなく塩まで配給制になった。祖母は日露戦争でも
そんな経験はないと承知しなかったというが、さらに落とし紙ま
で配給制となって新聞紙で「代用」したという。「字を印刷の紙
で拭いたら痔になる」と笑えぬ反論したそうだ。
この感覚は戦場では日本軍の兵站の無視、兵を食わせることは眼
中になく軍歌の「泥水すすり草を噛み」、「十日も食べずにいたと
やら」これがガダルカナル、ニューギニア、ビルマ戦線のインパー
ル、フィリッピンでの戦場での餓死地獄を生んだ。
ここまで来ると、「なぜ日本はあのような戦争を行ったか?」と
いう疑問にたどり着く、少なくとも日中戦争以後は日本は明確なる
戦争目的などなかった、戦争指導も成立しなかった。要は戦争自体
が目的化してしまった。日本国がなにかの政治的目標のために戦争
を行うのではなく、政治的目的もなく、膨大な軍隊のみ抱えるとい
うなかで、戦争目的とも無縁の戦争国家になった。中国戦線では、
1938年の武漢攻略以後は戦略的目標はなかった。だが停戦、終戦
への努力はないにひとしく、誰と何のために戦っているのか、それ
がわからない戦争国家に落ちぶれてしまった。国民は縄文時代前の
Levelの生活に陥った。
経済建設、経済成長などと無縁、ただ全てを戦争だから、地道な
国土建設も全て放棄された。
終戦後、例えば明石海岸、沈下して崩れ去った明石海岸の防波堤
である。木道な公共土木工事は放棄され、まったく何も産まない戦
争に全てが注がれた結果である。海岸線は侵食され、豪華な別荘や
民家まで波にさらわれた。国鉄の山陽本線と平行の国道にも被害が
及び始めた。戦時下に置いて護岸工事はまったくなされなかったこ
とのツケが日本中の海岸で生じた。
およそ日本は戦争どころの国ではなかったのだ。よく戦争を皇国
史観や「農村の土地不足」などを理由とする人はいるが、現実を見れ
ば日本は戦争など行う国ではなかった、だが巨大な軍隊が存在してい
た。軍隊が道を誤らせたのである。
1950年、防波堤も崩壊した明石海岸
国道近くまで波が打ち寄せる護岸の崩壊
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