城山三郎『冬の派閥』幕末における尾張藩の青松葉事件を描く、人物造形に苦心の跡

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 この作品は城山三郎さんが郷土である名古屋で起こった歴史
歴事件、「青松葉事件」を描いたものである。「青松葉事件」
とは?wikiでの文章、冒頭の文章から

 青松葉事件とは慶応4年、1868年1月20日から25日にかけて
尾張藩第14代藩主、徳川慶勝は藩内での佐幕派とされた家臣を
粛清した事件である。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、
斬首14名、処罰20名にのぼった。それは朝廷が慶勝に藩内の佐
幕派勢力の粛清を求め、尾張藩周辺の諸侯も朝廷の側につくよ
う説得するように命じ、上京していた慶勝に帰国を命じたこと
による、・・・・・・・という。

 その小説化だが、青松葉事件の真相は闇に包まれている。小
説家ならではの手腕がどこまで発揮されたか、である。幕末維
新のまつわる文学作品は多くの小説家によって作品化され、人
気があるが、この尾張藩を舞台の陰惨な粛清事件はおよそ、人
から嫌われ、目をそむけられそうな事件で、「名古屋不人気」の
先駆けともいえそうな事件である。大規模粛清だが、陰惨であま
り取り上げられない事件だ。名古屋出身の城山三郎さんしか作品
化しなかったのは当然だろう。

 『冬の派閥』は徳川御三家のひとつ、尾張藩の第14代藩主だっ
た徳川慶勝が維新の激動に際し、武力衝突を避けようと調停に努
める姿をメインに描く、尾張藩の幕末維新における歴史的事件を
描いた長編小説である。

 面白おかしく、というとなんだが勝者、敗者の明確なスタンス
で書かれることが多い幕末維新ものからすれば異色で地味な、い
うならば人気を取れない作品でもある。

 徳川慶勝は尾張の支藩の高須藩藩主、松平義建(よしたつ)の
子でえある。会津藩主の松平容保や桑名藩主松平定敬の兄である。

 幕閣は前二代の藩主に続き、将軍家斉の血を終わりに押し付け
ようとしたが、藩士や町人まで慶勝を支持、八百屋が抗議の投身
自殺まで行い、1849年に慶勝は藩主についた。

 慶勝擁立に動いた藩士たちは金鉄組を結成、この勤王派の若い
家臣団は以後、藩内で勢力をもった。慶勝も勤王の志篤く、反幕
の感情を抱いていたが、同時も慎重であり一橋慶喜派と紀井家茂
派の対立でも態度は明らかにしなかった。だが一橋派の挫折で、
彼も隠居謹慎を命じられ、藩主の座を弟の茂徳に譲った。だが井伊
直弼は暗殺され、一橋派が復活し、再び慶勝への内外の期待は高ま
った。

 幕府命令で上洛した慶勝は、調停の信任を得て、諸問題の錯綜す
る京都で、従弟の慶喜の変わり身の速さに驚きながら、努力を重ね
た。君臣融和を願う慶勝は、長州征伐軍の総督など、いやな役割を
押しつけられながらも、戦意は乏しく、融和を図ろうという気持ち
を持っていた。だが長州への処分で長州の家臣14名が処刑され、尾
張藩士が首実験を行い、後日、勤王についた尾張だが維新政府では
その時の恨みで冷遇された。

 慶勝の願いに反し、事態は急速に進展、慶喜が朝敵となってさら
に尾張の佐幕派を処刑せよと朝廷の命令が下る。その結果、金鉄組
に対抗する保守派、ふいご党に属する渡辺新左衛門ら14人が粛清さ
れた。東征軍の道筋にある尾張を勤王に踏み切らせる策謀ともみら
れるが、尾張の人たちはその祟りを長く噂した。

 城山三郎さんは郷里の名古屋の歴史に光を当て、青松葉事件は本
当に避け得ぬものだったか、問うているのである。

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