江藤淳『成熟と喪失』1967、「母の喪失なくして成熟はない」の文明批評的証明

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 1967年に河出書房から刊行の記念碑的評論、ということだが、
独断が独創ともなっている。本来、サブタイトルがあって「母
の崩壊」である。まず特色は論じられる作品の選択である。

 論じら得るべく取り上げられた作品は安岡章太郎『海辺の光
景』、小島信夫『抱擁家族』、吉行淳之介『星と月は天の穴』、
庄野潤三『夕べの雲』、いわゆる第三の新人たちの論考と思え
てしまうが、無論、作品論と云えばそのとおりだが、要はその
背後の「母の崩壊」というテーマの日本近代化論である。

 それ以外、第一次戦後派や大江健三郎、三島由紀夫、井上光
晴、高橋和巳などは無視ということである。つまり第三の新人
たちをもって、日本の現代文学をただただ論じているのだ。

 著者によれば昭和30年代に至って急速に変貌を遂げた現代日
本の社会状況は第一次戦後派などでは全く成すところがなかっ
たというのだ。第一次戦後派とは明確な定義があるわけでもな
いが、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、野間宏、花田清輝、中
村真一郎、福永武彦、加藤周一などとされるが、これも議論は
ある。

 国土は焦土化の散々な敗戦、第一次戦後派が持った「理念」の
文学にとって、昭和30年代は理念の後退であり、それは「反動」
の復活でしかなかった、ここで安岡章太郎などの「反理念」的な
軟弱な作家がその時代をより的確に表現できる理由があるという。
などときくと、理屈っぽくてわかりにくいが、野間宏の「真空地
帯」の戦慄ではもはや昭和30年代は表現できないということだ。

 かっての自然主義文学の求めた「個人」も、白樺派の求めた「
人生」もプロレタリア文学が求めた「社会化された私」など全て
虚妄であり、その認識の上に『海辺の光景』、『抱擁家族』は成
り立つという。

 ただこの本の真骨頂はどこまdめお文明批評、日本近代化論だ。

 そこで吉川幸次郎、精神医学者・エリック・エリクソンらの著
書を援用しつつ、サブタイトルの「母の崩壊」を考察する。日本
の精神構造は「母」への密着を求めるという農民的、定住者的な
精神的傾向であり、その喪失と回復を巡って小島信夫の『抱擁家
族』は成立しているという。「母の喪失なくして成熟はない」と
というテーマが浮かび上がってくる。親離れしないと成熟しない、
というなら当たり前な話じゃないか、と思ってしまうが、著者の
論述は荘厳なのである。だが毒親に悩まされた人たちが読めば、
幸福な人達がいるものだと失笑してしまうだろうが。

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