最終結論「川端康成の自殺」の真相、稲垣足穂の川端文学完全否定と三島由紀夫の稲垣足穂への極端な傾倒


 1972年の4月だったろうか、川端康成は自宅から少し離れた
マンションの一室で自殺を遂げた。その自殺の原因については
臼井吉見の「事故のてんまつ」が刊行され、論争を呼んだ。川
端の養子の東大教授だったかが訴訟を提起した、とかあったと
思うが、私は臼井吉見の安曇野売出しの番外編のように思えた。
山口瞳の文章を肝心な部分でそのまま盗用するなど、川端の自殺
の真相と思えば全く論外の著書である。

 川端康成1899~1972,,その「ノーベル文学賞受賞」で半ば、多
少ないだが文学の神棚に祀られているかのようでもある。受賞が
1968だったろうか、その時から名声は神話的になったかのようだ
った。だが真の具眼の人の評価は甘くはなかった。代表が稲垣足
穂であり、当初はまっさきに川端の邸に駆けつけて祝福した三島
由紀夫だったが、三島の稲垣足穂への傾倒は強まるばかり、端的
に云うなら天才・稲垣足穂の眼をごまかすことなど不可能である。
その真の天才、稲垣足穂への三島由紀夫のまさにぞっこんの心酔、

 なぜ川端康成は死んだ?畏友であった今東光は雑誌「噂」に「
ふーっと死んでしまったなぁ」と寄稿している。それが事実なの
だろうか、まだ72歳の川端康成だ。本当にただ「ふーっと死んで
しまうものだろうか」ガス自殺だ。絶対に川端康成は追いつめら
れていたのだ。精神的にどうにもならず死んだのである。

 三島由紀夫は川端康成を「師と仰いだ」というのが大手既成メ
ディアの伝えるものだったが、事実そうだったのだろうか?大手
出版社、代表は新潮社だったろうが、「川端康成の尊厳」それが
実体のない「虚飾の尊厳」であったにしても、徹底して守らなけ
ればならなかった。その虚飾の大きな部分は「三島由紀夫は川端
を師と仰ぎ続けた」ということである。そのために、わざわざ「
往復書簡」まで発表させた、・・・・・・のだがその内容に疑念
が残る。

 まず重要な点は川端康成が日本文学史上で稀代の代作作家だっ
た、ことである。純粋にまるごと代作、もあるが、あまりにまと
まりがなくひどい内容なので編集が大幅に手を入れて完成させた、
という「編集部改作」的な代作がまた多い、わかりやすいのは『
雪国』だ、他人が必死で取り繕ってまとめても、あの支離滅裂で
はないか。川端名義の「少女小説」は全作、基本女性作家の執筆
である。全て代作だが、代表的作品とされる小説も完全な代作、
極端に編集が手を入れての書き加えての実質代作ばかりである。
戦前から戦後、伊藤整が代作を請け負ったが、戦後『女であるこ
と』、『古都』、『眠れる美女』全て代作である。まあ、それを
云うなら大デュマの『モンテ・クリスト伯』、『三銃士』だって
完全に代作だし、実はショーロホフ『静かなるドン』、これも実は
代作である。世界が知らないだけである。ロシア国内では知られて
いる事実だ。

 大手出版社、特に新潮社などは「三島由紀夫は生涯、川端康成
を師と仰いだ」と「往復書簡」を偽造してでも声高に叫びたかっ
た。それは?川端の権威を守るためである。

 引用したことがあるが、改めて。三島由紀夫は1970年11月25日
の市ヶ谷に乱入割腹、その半年ほど前、1970年5月8日、中央公論
「日本の文学」内田百閒、牧野信一、稲垣足穂の月報対談、渋沢
龍彦とであるが、稲垣足穂への強烈な傾倒を述べ「私がとんでも
ないことをやっても、稲垣さんだけは理解してくれると思う」と
なにか重大事を決行を既にほのめかし、それを理解は稲垣足穂だけ、
と心底から述べているのだ。

 対談の大テーマ「タルホの世界」まず「遭わずにいたいひと」


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 三島:僕はこの両作家(内田百閒、稲垣足穂)の仕事に非常に
傾倒していまして、どちらも天才だし、・・・・稲垣さんの文学者
としての生き方の立派さから、思想的な大きさ、巨大さというもの
は、僕はこれからますます認識されると思うんですけれども、そう
いう真面目な話は別にして、僕は稲垣さんにはお目にかかりたくな
いんです。その一つの理由は・・・・・・、もう一つの理由は非常
に個人的な理由ですけれども、僕はこれからの人生でなにか愚行を
演じるかもしれない。そして日本中の人が僕を馬鹿にして、物笑い
の種にするかもしれない。まったくの蓋然性だけの問題で、それが
政治上のことか、私的なことか、そんなことは分からないけど、僕
は自分の中にそういう要素があると思っている。ただ、もしそうい
うことをやって、日本中が笑った場合に、たった一人分かってくれ
るのが稲垣さんだという確信が僕にはあるんだ。

 決行半年前に、こうも明確に三島は云っている。もう決断してい
るかのようだ。「日本中の人が笑った場合、稲垣さんだけが分かっ
てくれる」というのだから、川端康成は分かるはずはない、という
ことだ。

 
 この時期、週刊文春の対談、京都の稲垣邸に野坂昭如が訪問して
の対談だったが、タルホは

 「三島由紀夫はくるくる言うて全然きよらん、わいに興行師と呼
ばれるんが怖いんや」・・・・「川端なんか千代紙細工や」

 であった。

 そこで1970年、三島ら楯の会メンバーは市ヶ谷総監本部に乱入し
、三島は割腹介錯で死んだ。

 その後ある雑誌に稲垣足穂の三島乱入についての寄稿があったが、
私は読んでいない。「たった一人わかってくれる」と三島が思った
そのタルホ、さてどんな文章だったのだろうか。

 実のところ、三島由紀夫は川端に急速に、「師と仰ぐ」どころか、
憎しみと侮蔑の念が高まるばかりであった。新潮社が表向き公開の
無内容な「往復書簡」ではなく、川端をこき下ろした三島の未公開
書簡があったんぼである。その侮蔑、酷評の度合いは年ごとに高ま
るばかりだった。

 1970年8月に知人に送った書簡では

 「(川端は)もう作家と呼ぶに値しない」

 と書かれていた。またノーベル賞受賞作!『雪国』は「ひどすぎ
るツギハギだらけでもはた文学作品ではない、駄作の極み」と書い
てある出版関係者に送っているのだ。

 川端は睡眠薬に溺れて編集に送った作品もとうてい公開に値し
ないと判断され、編集が依頼して大幅に徹底改作した作品が少な
くないし、完璧に代作は少女小説は別として戦後は北条誠、石濱
恒夫、沢野久雄などが代作を請け負っていた。住み込み書生だっ
た石濱恒夫は『女であること』を代作したが、その後、「こいさ
んのラブコール」の作詞において自作への愛着がにじみ出てしま
った、その歌詞の中「こいさん、こいさん、女であること、あゝ
夢見る」

 要は出版界では川端の代作はあまりに周知の事実だった。自身
が書いた原稿ときたら「川端の原稿は無茶苦茶だ、あまりに支離
滅裂でそのままでは公開できない」それらも沢野久雄、北条誠が
腕によりをかけて完成された作品に仕上げていた。川端康成の作
家としての力はそれほど低かった。北条誠の家のお手伝いさんに
親しいという出版関係の女性が「お手伝いさんが北条さんが今で
も川端の原稿は僕が書いた、だが自分には何も与えられなかった
と愚痴をこぼしていた」と話していた、という。

 さらには『眠れる美女』は実質、三島由紀夫が書いた、川端
も書こうとしたがあまりにひどく、ほとん三島が仕上げた、と
いうのでそれも家族には漏らしていた。

 そのようなあらゆる川端への不信から、三島は

 「あの人(川端)はいつか制裁を受けるよ」

 と云っていたそうだ。

 三島の自決後、川端は常に三島の亡霊に悩まされ続けた。川端
が夜中、机に向かって書き物をしていたらその向こうに三島の亡
霊がいた、恐怖のあまり川端は絶叫した、沢野久雄は三島自決後
の川端の様子がおかしい、何かに怯えている、いつか自殺するだ
ろうと関係者に話していたという。なぜ?そのほぼ代作による虚
名への三島の怒りだ、三島は代作は書いても書いてもらった経験
はない。

 ノーベル賞受賞後、川端のもとに脅迫状が相次いだ、脅迫電話
もあった、川端は情緒不安定となった。三島の死後の川端への脅
迫状は松村剛が書いた、それも筆跡がバレないように無名の演劇
俳優に書かせた、というから、まあ村松剛も川端への怒りは相当
なものだったようだ。

 ここまで見れば川端の自殺は必然だったと分かる。都知事選挙、
秦野章への応援、キョロキョロ見回す視線が気持ち悪いと選挙関係
者にいやがられた。応援演説もさまにならない、「やめてほしい」
という秦野陣営からの要請もあった。

 1971年「週刊朝日」9月3日号、大橋巨泉対談、相手は稲垣足穂、
三島自決から一年近い、その約7ヶ月後、川端は自殺した。

 怒りを込めて語る稲垣足穂

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「川端が教えたのはノーベル賞の無意味さだけだ」

 稲垣:こうは言えますね。川端康成、これはなんにもない人
です。書を習って墨すって、字を書いてますね、「誠」なんて
。ところが何にもない人です。なぜ日本人は川端康成に感謝せ
にゃならないんですか。なぜかというと、文化というものの愚
劣とノーベル賞というもののインチキさを、よく知らせてくれ
た、(大いに笑う)

 巨泉:川端さんは今東光さんと一緒だったんでしょ?

 稲垣:今東光は文学青年に毛が生えた程度、ハッタリですよ、
いやなやつは文士です、中途半端です。

 


 もはや川端康成の自殺、当然の成り行きとしかいえないと
分かるはずだ。

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