ドナルド・キーンさんが見たNYの安ホテルで暮らす三島由紀夫の孤独な姿(1957年)
ときは1957年、昭和32年、私の記幼い頃の記憶、本当に日本
は貧しい国だった。でもあの頃が最も幸福な時代だったような
気もする。私がよく引用するアニメ「キテレツ大百科」での勉
三さんの言葉「昭和30年代は日本の子供たちが一番幸せな時代
だったんですよ」なぜ勉三さんは知っている?そんな年齢なの
だろう。・・・・・・海外に行くなど、まして欧米にいくなど
夢物語、大蔵省から外貨を調達し、行かなければならない。若
手作家時代の三島由紀夫(平岡公威)がアメリカに渡った。身長は
150cm前後、日本人としても非常な低身長だった。
三島由紀夫がなぜ戦後、あれほどコワモテを装ったのか、ボデ
ィ・ビルとか旧軍隊の真似事とか切腹とか、これほど似合わない
男もいないと思えるのだが、真意はよくわからない。
1957年、一人ぼっちでNY(ニューヨーク)で長期滞在していた頃
の三島由紀夫をキーンさんは見たという。数少ない目撃者だった。
その後、「文武両道」とか、二二六の叛乱将校を真似たり、切腹
に入れ込んだり、それらの姿はなんとも異様だったが、それから
するとおよそ想像できないような貧相で惨めな孤独な生活、だっ
たおいうのだ。
キーンさんによるとこうだ。
「最初のうちは三島さんは多少は上等なホテルに住んでました
が、その後、たぶんお金が乏しくなってきたんでしょう、三流か
ら四流以下のグリニッッジ・ビレッジに近いホテルに移動してい
きました。
そんな安ホテルは養老院代わりに貧しい老人たちが何人も住んで
いて、その人達は話し相手もないから、三島さんが外出から帰って
来るのを待っていて掴まえて、日本のこととか、なんでもいいから
話を聞き出そうとしてきました。三島さんは、いかにも惨めな顔で
対応してました」
四流のホテルに住み着いているアメリカの老人たち、無気力そ
のもの、サイモンとガーファンクルの「旧友」Old Friendを想起す
ればいい。建前的には「夭折というものの神秘的な意味」に傾倒し
ていた三島にとって、ホテルのロビーで、四流ホテルのロビーで日
なが一日、すわっている老人たちの姿は我が身の金欠の惨めさとも
重なって非常にダメージとさえなったようだ。
そんな老人たちに対し、三島は手も足も出なかった。
キーンさんは「もっと頻繁に会ってあげたらよかった、んですが
、私も大学での講義もあってどうにも。東京ではとにかく一流好み、
レストランでも、それを見せつけられていたから、NYでの三島さん
を私がよく行った安い中華料理の店では不満ではと、招くこともしま
せんでした」
「ある日、三島さんが私が住む大学近くのアパートに来てね、とて
も誇らしげに云うんです『地下鉄に乗ってやってきました』ってね。
褒めてあげましたよ、『普通の日本人じゃ、地下鉄にもなかなか乗れ
ないよ』と」で私が外出しようとしたら「もうすこしこの部屋にいて
もいいですか」って、あの四流ホテルの帰りたくなかったんですね」
三島由紀夫だからそんな生活を述べた文章も実に気取ったものだ。
でも海外旅行をした文士の旅行記の一つと思ってしまうが、冬のNY
の安ホテルで、ベッドで膝を抱えて寝ていた孤独な貧相な三島由紀夫
の嗚咽すら聞こえそうな旅行記なのだ『裸体と衣裳』である。
倉敷美観地区を散策するドナルド・キーンさん。1972年3月
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