結局、仏教の教えは釈尊(仏陀)の言葉のことだろう。日本仏教は何故、釈尊より日本仏教各派の開祖を重視するのか?

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 これもいたって素朴な思いなのだが、朝ふと私の部屋にあっ
た『ブッダの言葉』中村元(新潮社)、久しぶりに目を通した。
思うに釈尊(仏陀、ブッダ)の言葉はそうとうに確実な形で残っ
ている。それは阿含経となるが、これが日本で「阿含宗」となる
と阿含の火祭り、のように、やはり「日本流の極端なディフォル
メ」がなされて誤解を生んでしまう。日本の阿含宗ではない、真
の意味での阿含経だが、「阿含経も後代の付加が多い」とする日
本の伝統的とも言える「阿含経の軽視」だ、さらに最古層経典、
これらは近代ヨーロッパの印欧語研究の派生という面もある、釈
尊の言語はパーリ語そのものだったのか、無論ヴェーダ語よりは
新しくもあるが、その言語学的考察で釈尊の言葉の信憑性も考察
できるわけである。

 時代は古いが、それを考えれば釈尊の言葉はかなり伝わっている
と考えるべきだろう。

 だが、その後の膨大な「漢訳経典」がはたしてどこまで「仏教」
といえるのか、その膨大な漢訳経典から気に入ったものを選んで
日本に独自に仏教教派を開祖した人物を結果として釈尊よりはるか
に重視するという傾向、仏教の名を冠した漢訳経典準拠の日本教派
というべきだろうか。私が別に宗教学を専門的に研究したなどとい
うことはないので、どこまでも素朴な疑問だ。「阿含経」が後代の
付加が多いからと云って、例えば「漢訳」の「法華経」よりは遥か
に釈尊の教えに沿ったものだろう。親鸞の教えが「釈尊」の教えと
は縁もゆかりも無い、独自の日本の独創的思想というべきで仏教の
冠を外し、親鸞教とするほうが正当なことは常識的な考えだろう。
親鸞教も「神」は認めないから宗教ともいい難い。

 後代に付け加えられたものがあっても「阿含経」の教えは最も直
接的な釈尊の教えであり、それ以外に仏教はない。仏教はあえて云
えば宗教ではない、いかに生きるかという生活の叡智、であろう。
「神」という現実を遊離したものは認めない。「死後」は論じない、
認めない、日本の近代葬式仏教のように「死んだら誰でも仏様」が
いかに営利的なだけの仏教からもっともっとも離れたものだ。日本
の阿含宗が言う「阿含経典に説かれている教えは窮極の教えは成仏
だ」は「死後」を認めない、論じない釈尊の教えを歪曲している。
成仏もあくまで生きていてこそである。多神教のヴェーダの教えとは
隔絶している。一神教のユダヤ教、入れ子の構造の一神教のキリスト
教、絶対的一神教のイスラムとも遥かに異なる。釈尊の教えに神はな
い、神に擬似の仏も無塩のものだ。いかに善く生きるか、それだけで
ある。「仏」を神に疑似の概念で宗教化するのも仏教の歪曲である。
死後を認めない仏教は「成仏」も生きてこその、しかも現実を遊離し
た特別な状態を云うのではない。仏教は死後を認めない、だが亡くな
ったひとを追悼し、慕い、悲しむ残された人の心情は尊いとするので
ある。また苦行も無意味とする、釈尊は苦悩の果て、自らに厳しい苦
行を課したが何ももたらさなかった。さりとて放蕩など認めない、つ
まり中庸な善良な生活に尽きる、というまさしく常識論である。「成
仏」に過剰な意義を与えることこそ誤りである。

   「ブッダの言葉」より

  「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳に
  よって清らかになることができる」

    と私は説かない。

  「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や
  道徳を守らないでも、清らかになることが出来る」

  とも説かない。

  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、

   平安であって、迷いの生存を願ってはならない。



 つまらいことだが、受験参考書シグマノート(苦笑)の「倫理社会」

 日本仏教の特色
  
  ①戒律を無視する  世俗的である

  ②釈尊を軽視、日本の仏教教派の開祖を極度に崇める


 ⑤まであったと思うが記憶にない。でもシグマノート、いい点を突い
 ていると思う。



 

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