保高みさ子『花実の森、ー小説文藝首都』(1971)1933年から1970年の38年にわたる発刊の栄光と苦難


 本の帯には「大原富枝、芝木好子、北杜夫、なだいなだ、
佐藤愛子、田辺聖子氏ら幾多の作家を世に出した同人雑誌
『文芸首都』、ーその38年の苦難の歴史と、文学青年たち
の群像を、主宰者保高徳義の執念とその妻の怨念の姿を通
じて描く待望の書き下ろし長編」とある。

 まず同人雑誌「文芸首都」はあまり今は覚えている人も
いないというべきか、最初から知らない人が多い。内容は
本の帯に書かれているように、新人育成の文芸雑誌「文藝
首都」は保高徳義の主宰する同人雑誌であった。戦前、戦
中、戦後を通じて38年の長きにわたり、刊行された。

 著者は主宰者の夫人である。だから「文芸首都」38年の
歴史を語ることは同時に、保高夫妻の反省の歴史をも綴るも
のとなる。それは昭和初期から戦後まで1933年1月から1970
年1月まで続いた。大阪万博の年の1月をもって終刊となった。
昭和8年から昭和45年までとなる。ともかく文壇の側面史とし
ての資料的価値も非常に高い。

 主宰者で創刊者の保高徳義は明治22年、1889年12月、大阪
の生まれ、1915年、大正4年に早稲田を卒業している。同期に
青野季吉、細田民樹、坪田譲治、直木三十五らがいた。上級生
に広津和郎、宇野浩二、谷崎精二らがいた。昭和3年、1928年
に雑誌「改造」第一回懸賞小説に当選、1932年、昭和7年に「
文学クオタリイ」を発刊、その付録月報で「文藝首都」を昭和
8年、1933年1月に創刊、すぐに全国的な新人作家育成の雑誌に
切り替え、結局、その主宰者として生涯を捧げた。

 では「文藝首都」をベースに文壇に登場した作家は、中島直
人、金原健児、光田文雄、風間真一、柴田健治郎、上田広、藤
井重夫、伊藤桂一、大原富枝、椎名麟三、三波利夫、竹森一男
、溝口績、芝木好子、若杉慧、半田義之、長谷健、板東三百、
金史良、井野川潔、早船ちよ、梅崎春生、宮崎康平、福田綾子、
広池秋子、田辺茂一、北杜夫、佐藤愛子、なだいなだ、日沼倫
太郎、田畑麦彦、田辺聖子、富島健夫、西山安雄、丸茂正治、
・・・・・

 など著名となった作家も多いが、地味に終わった多数の作家
たちが多い。終刊正式決定は保高徳義が病気となって四年目、
1969年10月15日だったという。終刊は1970年1月号だった。

 いまや文芸の面でも圧倒的な新潮社のスタートは、全国の文
学好きな若者を対象にした投書雑誌「新声」出会った。佐藤義
亮のような奇蹟的な成功は万に一つだろう。その陰には無数の
敗残者がいるが、保高徳義もその一人だろう。だが実績は赫々
たるものである。

 どんな赤字続き、経営困難でも戦前戦中から戦後長く続けた
のだ。親族の援助、文壇人の寄付などがあってこそである。

 著者は主宰者の二番目の妻である。最大の犠牲者とも言える。
その子供らも犠牲者だろう。著者は女流作家を断念したのである。

 著者の、保高みさ子、大正3年、1914年、東京生まれ、松山高
女を創業し、昭和13年、1938年、保高徳義と結婚、女流文学会
会員出会った、作品として『女の歴史』、『女性のための人生論』
がある。

 とにかく帳尻の会わない赤字の『文藝首都』の継続のため、
想像を絶する工夫と忍耐があった。挿話的な金史良などのこと、
言動など貴重な資料である。『文藝首都』の意義は高いが、ま
た継続のための犠牲も大きかったと言わざるを得ない。

 左から青野季吉、保高徳義、保高みさ子、草野心平

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