安岡章太郎『サルが木から下りるとき』1972,安岡さん、ゴリラに会いにアフリカに、観察眼、凡ならず
安岡さん、ナイロビの空港で遭遇した「動く人間」の典型の
ような日本人女性に、何の目的でこの地に来た?と問われ、「
まさか動物学者でもなく探検家でもない私が、自分の先祖にあ
たるゴリラと会うためにはるばるとやってきたんです」ナイロ
ビとは言うまでもなくケニアの首都である。さらに口から出任
せに「猿を買いつけに」とか、でも本当にマジで安岡さんは、
祖先たるゴリラに会うためアフリカのケニアまで来たのである。
意外だが、安岡さんの内部には厳然と「思想」が存在し、そ
れは進化論の独創的解釈によって成り立っている。それは「
動く人間」の大量の出現は、
「実は目下、われわれが時代の一つの変わり目に差し掛かっ
ていることを示すものなのではないか。たとえば、それは百万
年のむかし、人類の祖先がそれまで木の上で暮らしていた密林
を捨てて、広々とした草原へ、日本の足で立って歩き始めたと
いう、人間の歴史の決定的な瞬間に匹敵する時機に、いまわれ
われが差し掛かっている、ということなのではないだろうか」
というちょっと理解しにくい考えによる。
その「思想」によって、実はいまや「動く人間」を先頭に、
人類は猿の祖先へと逆行を始めているのではないか、という
発想なのだ。そう考えると、なんとなく人恋しい、でなく猿
恋しい、しかも動物園のゴリラは都市化している。
そこで安岡さんは、ナイロビからモンバサなる地に実際に
出かけた、というのだ。
で首尾よく、ゴリラに会えたのか?ブドンゴの森の小屋
に飼われているチンパンジーに足首をタックルされた、だけ
であった。
だが作家の観察眼は鋭い、その地の運転手、またウェートレ
スの心の中の機微、それは他の追随を許さないほど鋭いものが
ある。だが目的は果たせなかった。だがゴリラなどどうでもい
い、アフリカのケニアまで出かけての作家の紀行文としたら、
場所が場所だけに新しい発見に満ちている。
「動物園というのは古代から伝わるノアの方舟がそのまま現
代に生きている場所である。そこでは安堵に満ちた動物たちが
実に悲劇的にひしめきあっている」
かくしてゴリラは見ないで帰国した安岡さん、京都の動物園
にゴリラの赤ん坊を見に行ったのだ。そこで見事に完結の構成
はやはり凡人ではない。その感想の挙げ句
「『あゝ、なんて青い空だろう。おれたちの歴史もまだ長く
続いている・・・・・』と愚にもつかぬつぶやきを心の中で繰
りかえした」
佐藤春夫の葬儀の受付に、吉行淳之介氏と
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