丸山健二『黒い海への訪問者』1972、竜頭蛇尾、結末が拍子抜け

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 私が丸山健二の文章を初めて読んだのは角川版「芥川竜之介
全集」の第一巻の月報だったか、違うかもしれない。芥川の「
羅生門」を評して「天才的な所産の作品は疑いない」という趣
旨の短文だった、私は男が突然、気変わりして老婆の衣服を奪
うというのが不自然で滑稽に思えていて、「そうかな」と中学
時代だったが感じた、1966年に『夏の流れ』で文學界新人賞、
芥川賞だから、角川版芥川全集第一巻の発刊時期と符合する。

 そこから、作品で読んだのは『正午なり』、映画化されて
金田賢一主演も印象的といいたいが、映画自体は見ていない。
ふとその頃思ったのは丸山健二は「中道過激派」、政治性でな
く、魂の中道過激派、作品は打てば響くように心に響くのだ。

 この作品、もう生きていなくてもいい価値のなさそうな男、
いてもいなくても存在感はない、ような男、だからもう死んで
もいいような男、主人公は忠夫という名前のそういう男だ。

 さりとてそれを悲観し、絶望しているわけでもない。だが妻、
さらに母親も騙して会社には一ヶ月の休暇届を出し、20万トン
という巨大タンカーに便乗し、遠い航海に出たのだ。出だしか
ら丸山健二らしい。

 主人公は30歳の誕生日に、暑く、青い、見渡す限り水だけの
世界に身を投げ出したいと思っている。死なねばならない理由
はないのだが、この先、さらに生きるなら何か思い切った手を
打たねばならない。このまま40歳、50歳、下手すりゃ80歳まで
生きる羽目に陥るかもしれないのだ。

 忠夫が小学校を卒業した年の夏、眼が悪かった父親が「陸は
よくよく注意して見ないと行けない面倒なことが多すぎる。だが
海はいい、海には水しかないのだから、」

 家族からも会社からも、大勢の知人友人と離れて遠い航海に出
たのも陸上の面倒からまずは逃れるためだった。日々の面倒から
脱出し、水だけの、塩水だが水だけの海へ、永遠に身を沈めよう
と思い込むほど、忠夫は疲れていた。

 だが海はそれほど忠夫に良かったのだろうか。船員たちは海は
退屈なだけだ、と云っていたが、はたして、である。狂った忠夫
は母親、妻の名前を狂ったように呼び、会社の誰彼なく名前を吠
えた。甲板の上を駆け回った。死にたくないと叫んだ。

 こういう結末は何を考えたのだろうか。結末として最高にツマ
ラナイとしか言いようはないが。とりあえず、結末で智慧が尽き
たかのようだ。

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