自分しか頼れる者はいない、という自分自身のエゴが生きる支え


 この世は誰も頼れる者はいない、といってそれは個人差が
ある。誰も頼れないが母親だけは、という話は聞く。無論、
母親も毒親の極みで散々だった、といケースも珍しくもない
かもしれないが。でも、まあ、母親だけはせめて、と思いた
くはなるものだ。ところが現実は、確信を持って断言できる
が、母親はずっと次男である私に殺意と憎悪を抱き続けてい
た。「殺意」とは穏やかではないが、実際、「殺す」に類す
る超暴言は数限りなかった。絶対に冗談で言える言葉ではな
い。母親の晩年、最後の二十数年、それ以上だが、私がちょ
っと遠方から通って、週に一度か二度通って食料を運んだり、
金銭も、私以外に誰も母親の世話をするものはいない、だが
最後の最後、それまでは多少、感謝の素振りもあったが、最
後の一年近くは原点回帰、私への憎しみが復活したようだ。
アルツハイマーでそうなったのではなく、原点回帰で頼れる
唯一の私に再び殺意である。電話で「殺すけー」岡山弁の田
舎者だった、遠方から通う私にそれなら、誰か頼る物が出た
のだろうか?その結果は、私は関与しなかったが、母親は悲
惨な場所に放り込まれた、あの超暴言の嵐を思えば当然だと
思う。

 親は自分の子供には住居は用意すべき、は当たり前のよう
でもうちの親については違った。私が神戸大学二年の冬休み、
新築なった家に帰ったら、「この家は長男夫婦と私が住む家
だ、敷居をまたぐな」、これをだれに云っても信じてもらえ
ない、そんな話、世界中にないだろう、と言われる。

 親についてはこうだが、長く私は友人もないに等しく、さ
らに学校では疎外、シカトの連続、ちょっと口に出して云え
ないようなことが少なくなかった。

 世の中「自分以外、頼れるものはいない」という人は多い。
だが、私ほど、誰も頼れなかった者はいないだろう。母親は
私を家から追い出すことしか考えず、その考えは死ぬまで変
わらなかった。その母親は比類ない惨めな死を遂げたが自業
自得というほかなかった。

 かくして現在はどうか、た取れるものは家族、だが親族と
付き合いはない、例外的に少数のいとこがいるくらいだ。そ
れと数は少ないが貴重な友人の方々である。数は少ない。

 何があろうと、頼れるものは自分しかいない、頼れる者は
この自分という、いうならばエゴこそが長く私を支えてきた
ものだ。甘さは一切排除である。

 ここで参考までに「自分しか頼れる者はいない(だからこそ
自分の家族は大切に)」というあの歴史的な天才個性的コメデ
ィアン、トニー谷が1962年、大阪毎日放送ラジオで語った
「母を語る」不遇だったが、まだ恵まれていたな、とも思う
のだが、どうか。

 「ある晩、ボソボソ話している声と母がいわゆる親父さ
ん(紋作、実はおじ)喧嘩しているのが耳に入った時、私
が今の親父さんの子供じゃないと、以来、今の親父さんは
本当の親父じゃないのかと、またお母さんも本当じゃない
のか、ってことを言ってる間に、なんとなく家の空気がお
かしくなっていって来ましてそのうちに、そのうちに親父
さんは夜遊びに行って帰ってこない。おふくろは一人で寂
しそうにしている、で学校に行くのがつまらなくなる。で、
親父と大喧嘩したことがありまして、中学二年のときでし
たが、そうしたら、おふくろが私をかばってくれましてね、
親父は本当に乱暴な継父でした、いわゆる継父でした。
今になっておふくろが居てくれたらと思うときには墓の中
で、こんなに友達もいない。寂しい男ですけれど、自分
一人でなきゃやり遂げることができない、人の世話になっ
たんじゃ、いいときはちやほやするけど、悪いときには
誰一人として頼るものがいない、自分しかいないんじゃ
ないかと、いうこのトニー谷個人のエゴと云うか、自信
というのか、自信過剰というのかまけずきらい。それと
この芸事で仕事をやれて働かせて頂いてるのは、その力
を着けてくれたのは今になってみると、おふくろのお陰
じゃないのかと、感謝しております」

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