人生は二度与えられるべきという考えの矛盾

人生は一度きりである、生まれる時代も家庭も国も地域も
何もかも選べない、要はいきなりこの世に放り出されるとい
うことである。誰しもそんな甘い環境、状況が与えられるわ
けはない。だが問題なのは極端に悪い環境、つまり悪い親、
家庭に投げ出されるというケースもそれほど珍しくはない、
ということである。要は並のレベルなら上々と思えばいいの
だが、百千万億恒河沙劫無限の時間の中でも到底、逢い難い
ような毒親と下衆の極みの家庭に生まれるということもある
のである。同じ人間で、愛情深い見識の高い親のもとに生ま
れる者もいる。その強いてどちともいえない凡庸なレベルの
親のもとに生まれる、千差万別だが、要は極端に悪い毒親で
なければ、運命としてはリースナブルということである。い
たってマ貧しい家庭でも温かい家庭ならそれ以上、望むもの
もないだろう。
しかし、単に環境、境遇以上に実際、当然ながら人間は全く
生きる上で未経験で次々に襲来する試練に立ち向かわねばなら
ず、結果としてまず知れぬ、過誤、誤った判断、失敗を繰り返
す羽目になる。それが一度限りの人生だ、としても自分の責任
でもない環境、境遇のもたらす不遇の中からまるで未経験で、
さらに次々と襲いかかる試練、理不尽なまでの問題を要領よく
解決していく、など容易なことではない。
これらの一度きりの未経験による制約も、一度人生を体験した、
というならまるで話は違ってくるだろう。大学受験なら高校の最
初から理科社会に取り組む、数学に過剰に時間をかけない、中学
は親を説得し、公立中学を避けて私立就学に活かせてもらうよう
にする、もし就職試験なら何度でも公務員試験を受ける、社畜に
向かいなら最初から民間企業は狙わない、・・・・・・だが、二
度目の人生だからといって、時代や親、家庭を選べるわけでもな
い。二度目の人生だからといって、並以上の家庭が保証されるわ
けでもなく、待ち受ける不運を避けられる保証など、どこにもな
い。喩えて云えばクジを引いて、奇数か偶数か、確率は二分の一、
だが二度目ひいてもやはり確率は二分の一であろう、なんどやっ
ても同じことである。二度目の人生と言って運、不運は変わるこ
ともない。
また二度目の人生に最初の人生の経験が活きる、と云うなら、
「記憶が二度目の人生の自分に最初から残って」いなければなら
ない。そうなると、・・・・最初の人生の苦渋を極める悲惨な記
憶を引きずるっている、ということである。最初の人生の耐え難
い汚辱の記憶は絶対に残したくない、といって二度目の人生への
経験が有用と云うなら、そのような記憶も全て残っているはずで
ある。
つまり、全てはどうにもならぬこと、ということだ。来生があ
るとは思えないが、もしやあるかもしれない、だが一度目の人生
の記憶を引きずっているならそれは不幸の極み、記憶がなければ
全く無地の状態でスタート、だから初めての人生と同じことであ
ろう。要はどうにもならない、ということだ。人生はやはり一度
きりなのである。
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