1957年1月.美空ひばりが塩酸をかけられた事件、事件後、噴出した「冷たいひばり、お高いひばり」無愛想への批判

幼い日に非常に記憶に残る事件、事故は美空ひばりが頭から
少女ファンに塩酸をかけられたという事件、それと(初代)若乃
花の息子がちゃんこ鍋に転落し、死亡したという事故である。
でも若乃花は所属部屋(花籠部屋)に居住していたわけではなく、
なぜ花籠部屋まで子供が来ていたのか?というのも多少、奇妙
ではある。それは一度、記事でアップしているので「美空ひば
りへの塩酸かけ」事件である。若い人どころか還暦くらいの方
でもあまりご存じないかも知れない。
それは昭和32年、1957年1月13日夜のことだった。やはり超
人気歌手と云えた美空ひばりが顔に塩酸をかけられた事件は
社会に大きな衝撃というのか、驚きを与えた。
その年、1957年1月13日夜9時半ころ、東京浅草国際劇場で
のことだ。演し物は「ひばり・橋蔵」共演の「花吹雪おしどり
絵巻」舞台では小野満のベースが低く垂れていた。舞台に向か
って左手、花道につながった揚幕の陰にひばりが立っていた。
黒いビロードのドレス姿、たちまちベースの音が変わった。出
の頃合いをみようとひばりが舞台の方へひょいと覗いた途端、
舞台の袖に上がって観ていた一人の少女が、いきなりオーバー
の下に隠していた塩酸の入った瓶から塩酸をひばりの顔に向け
てふりかけた。
「キャー」と絶叫したひばりは両手で顔を覆い、その場に
ヘナヘナとかがみ込んだ。一瞬の出来事で、揚幕の陰で行われ
ていて観客は誰も気づかなかった。ただひばりの側にいた付き
添いの人や大川橋蔵の世話人、また日活俳優の南博之さんらが
そのとばっちりを受けて火傷した。
火傷をした付添いの人が「その女を捕まえろ」と叫んだ。
少女は舞台の大道具の方へ逃げ込もうとして、居合わせた浅草
雷門のブロマイド屋の斎藤午之助さんに衝突した。斎藤さんが
その少女を掴まえた。抵抗は全くしなかった。やがて劇場の警
備の浅草署員がやってきた。少女はいきなりオイオイ泣き始め
た。
事件後、劇場は事件を観客に分からないようにと小野満のジ
ャズバンドで時間をもたせた。だが一向にひばりが姿を見せな
いので観客席は「いったいどうした」とざわついてきた。9時
50分ころ、劇場内に「ひばりさんが急病のため最後まで出演で
なくなりました」とアナウンスされた。結果として観客は事件
のことは全く知ることもなく帰途についた。
これだけの事件だが、なぜその少女がひばりの顔に塩酸をか
けたのか、その理由がさっぱり分からない。浅草署に留置の少
女は「死にたい、死にたい」と号泣する、半狂乱だったという。
自殺のおそれもあるとして、取り調べは落ち着いてから行うこ
ととなった。
少女が持っていたメモ帳にはフェルトペンで「ひばりちゃん、
ごめんなさい。ひばりちゃんが、あんな姿になり、全国のファン
、家中のものが悲しむであろう」とか「ひばりちゃん、私は本当
に悪い人間です。ひばりちゃんが醜いかおになって」と、とぎれ
とぎれの異常なファン心理が綴られていた。ひばりの方は、その
ようなことをされる覚えはない、という。
1月14日なって取調が進むと事情はだんだん明らかになってき
たという。少女は平静さを取り戻し、自分からスラスラと事情を
話してきた。
少女は東京都板橋区志村本蓮沼町の会社重役の家のお手伝いさ
んの19歳だった。実家は米沢市、母親、兄、その妻、姉の四人の
家庭、兄は製材所勤務、姉は紡績工場の女工で貧しい。少女が中
学生の頃から美空ひばりの熱烈なファンで、その後江利チエミな
ども好きになったが、依然、ひばりが一番好きだったという。一
度は姉の働く紡績工場に務めたが、1956年3月に東京から、お手伝
いさんの求人があるのを見つけ、それを幸いと上京した。これで
夢みていた、ひばりと会えると狂気乱舞した。
主人夫婦は優しく親切だったが給料はわずかで欲しいものは容易
に買えなかった。それでも、ひばりのブロマイドを二枚かって自室
に飾った。ひばりの自宅に10回ほど電話をかけたが取り次いでくれ
なかった。雑誌で見たひばりの豪勢な家や100足以上はありそうな靴
、数多くのドレスや着物、我が身のあまりの貧しさを考えると本当
に自分があまりに惨めに思えた。その年の正月、実家にも帰れず、
いつまでもこんな生活をしていても意味がないと1月11日朝、勤務の
家を飛び出した。
その後、生まれて初めて浅草国際でひばりの実演を見た。その華
やかさ、熱狂のファン、その夜は上野の旅館に宿泊、興奮して寝つ
かれない。「なぜ、わたしがこんな思いに」と逆にひばりが憎くな
った。1月12日上野で映画を見て夕方に旅館近くの薬局で塩酸、300
cc瓶入りを購入、、寝床で「ひばりを傷つけてやる」と走り書きを
した。
1月13日、午前11時ころ浅草国際に入った。一度公演を見て、楽屋
を訪れたが入れてもらえない。「どうしてもやってやる」と悔しさで
いっぱいになった。その後は無我夢中で実行したという。
当時は美空ひばりの人気はやや落ち目とされていたという。だが
公演は満席を続けていた。
ひばりが入院した1月13日夜から14日朝にかけて見舞いはわずかに
江利チエミ、小野満、川田晴久、堺駿二ら芸能人、劇場関係者のみ、
ファンは一人も訪れなかった。「ひばり負傷を心配し、押し寄せるフ
ャン」を予測して待っていた報道陣も拍子抜けだったという。
劇場近くに棲む主婦の話はこうだった
「ひばりが国際に出るときは、いつも湯島の帆台荘に泊まります。
二、三年前まではファンが大勢つめかけてましたが、本当にひばり
ってツンツンでしょ。母親と一緒に旅館に入ったら笑顔を見せるで
はなく、サイン一つしない。その無愛想さはますますひどくなって
ます。あれじゃ人気商売とは云えませんよ」
あまりに冷たい美空ひばり、ツンツンした愛想のないお高くとま
る美空ひばり、貧しい一人の少女に一度でも対応してあげていたら、
笑顔の一つも見せていたらこんな事件は起きなかった、と事件後、
誰しも思ったそうである。火傷は三週間ほどで全治したが、やはり
、ひばりの無愛想、ツンツンは変わることはなかった。
当時の朝日新聞はひばりの態度も考えて
「他の歌手や芸能人も、人気稼業に従事する者は、社会的な影響力
を十分自覚し、それにふさわしい態度、ファンサービスを心掛けるべ
きである」
とコメントしている。
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