大江健三郎『孤独な青年の休暇』1960,戦中派の青年の責務を問う
新潮社から短編集として刊行された『孤独な青年の休暇』
時代はまさしく1960年の安保闘争の騒然たる時期だ、収録さ
れていた5つの短編、モチーフは現実を灰色の牢獄とみなし、
その中から自由を求めて逃げ出そうとすることだろうか。あ
の大戦争が終わってまだわずか15年しか経過していない。そ
の表題作が『孤独な青年の休暇』である。
青年の休暇といって大学生ではなく、主人公は、およそ何
の希望も張り合いもない灰色の日常の中で生きがいも喪失し
て無力感と絶望感に打ちひしがれる凡庸なサラリーマンであ
る。彼は関係した下宿の娘のために用意した三万円を持って、
その忌まわしい日常から逃れようとする。選挙期間中のある
地方都市をふらりと訪れた彼は、右翼団体の行動i隊の殺し屋
に仕立てられる。実際、60年安保において右翼の襲撃は目立っ
た。
彼は戦争体験に縋り付く世代を罵り、むしろ「勇敢な自分を
発見する機会がまったくない」平和な時代を呪う。つまり、彼
の絶対的な孤独と絶望は、次々に手足をもがれていった果てに
追い込まれた片隅の孤独ではなく、あふれる青春がひたすら出
口と手がかりを求めてあがく焦燥の声なのだ。
手がかりはしかし見当たらない。その点で彼らはその先輩を
責めていいいい。その焦燥は目を背けたくあるような性描写の
奔流となって出口を求める。いわれなき絶望と悶えるような性
という「恐れる若者」の図式を見れば、これをもし精神分析学
者がこれを見たら、ありふれた表裏一体の現象としてたやすく
説明するだろう。結局、その小説そのものより、小説を書くこ
とに駆り立てられることが悲劇的ということなのだ。
この断絶を埋め、何らかの手がかりを彼らに提出することは
やはり、いわゆる『戦中派」の責務と言えるということだ。
大江健三郎は何よりも時代に生きる責任と圧迫にとらわれて
いた作家だ。そのナマの形のエゴがこの時代において噴出した
のである。
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