全く危機一髪だった京都への原爆投下、原爆投下都市の第一候補の運命を決した複雑な歴史の綾
京都市への原爆投下計画については吉田守男教授が深く
に研究、本も出された。『日本の古都はなぜ空襲を免れ
たか』、『原爆は京都に落ちるはずだった』実はこの二冊、
タイトルが異なるだけで全く同じ内容だ。共通内容が多い
ではなく「同じ本」である。この点、正直、疑問も感じる。
だから序文も同じである。全く同じ本を別タイトルで刊行、
これはいただけません。多分、最初、奈良も含む古都一般
への空襲、のタイトルにしたが、しばらくして何より、京
都が原爆投下候補一位だったことをアピールしたくなった
、だが現実、書き直せない、その結果とおもわれる。
かってはウォーナー伝説が流布し、京都、さらに奈良の
貴重な文化財を空襲にさらさなかったアメリカは「やさし
い」などという、事実無根が支配的だったが現在はかなり
それらは払拭された?のかどうか。奈良はさして軍事施設
がないから大規模空襲がなかっただけで、中規模空襲は何
度もあり、京都に大規模通常空襲がなかったのは、原爆投
下の第一候補だったからでしかなく、実は空襲は何度かあ
り、犠牲者もかなり出ていた。西洋文化の象徴、至宝があ
つまりローマさえ、徹底爆撃が繰り返されたのだ。まして
馴染もない日本の文化財、だからこそ端折ればスチムソン
陸軍長官の役割は評価されるべき、全ては思惑と微妙な成
りゆきの交錯する歴史の偶然である。
さて、
私もざっと読んだ、なかなかよく調査されているとは思う。
「ウォーナー博士恩人説」が全く誤りというのは当然のこと、
である。ではスチムソン陸軍長官恩人説はどうか、だが吉田教
授はこれも否定している。だがこれについては、吉田教授の主
張はさほど説得力がない。アメリカが京都への原爆投下につい
て「古都、文化財保護という意図は全くなかった」というのも
実は言い過ぎというもので、基本、全面戦争だから何をやろう
が勝手、だったにせよ、やはり京都ゆえの独特の価値へのアメ
リカ陸軍内部の抵抗的な要素が存在したことの影響はあった
からである。スチムソン陸軍長官は京都への愛着が深かった、
のは紛れもない事実である。京都が原爆投下、第一の候補だっ
たのは無論、スチムソン陸軍長官時代だが、「だからこそ」、
スチムソン陸軍長官は身を挺して京都への原爆投下に反対した、
わけである。ただスチムソン一人で抗することが出来ない場面
とは、なお日本が降伏を拒み続けた場合、最も日本人にダメー
ジ、精神的なダメージを与え得る原爆投下都市として京都は避
けられなかった、ということである。
吉田教授の調査研究で新潟は1945年8月1日に原爆投下候補地
から除外されていたということだ。これは貴重な成果である。
同時に、新潟市では長崎原爆投下後、「次は新潟市だ」として
内務省の意向に背いて、市民の新潟市から郊外への脱出を実施
させた、という。これも吉田教授の著書で知った。また皇居を
爆撃しなかったのは、「天皇は戦後、使い道があるから」とア
メリカはしっかり考えていたそうで、これで戦後史のかなりの
部分、本質を説明できる。
ともあれ京都市は不動の原爆投下の第一候補だった。まず相
当規模の市民が住み続けている。100万人規模である。大阪に
も近接で距離的にも実行しやすい、盆地で原爆の効果を高めら
れ、また知ることが出来る。日本の文化的、歴史的な中心でも
市原爆投下したら、「京都灰燼」が日本国民に与える衝撃の大
きさは筆舌に尽くせない。「ついに京都が」と日本人への精神
へ与えるダメージは比類ない。金閣寺が放火されたどころでは
ない。
京都は原爆投下候補地、そのトップの候補地となったことで
通常空襲で大規空襲は免れた。ただ、なかったわけではなく、
小規模空襲はあってかなりの犠牲者を出している。奈良市は
大規模空襲ではないが、奈良市全域への空襲は行われ、さらに
繰り返し小規模空襲が行われている。
いよいよ原爆投下、それな何よりもマンハッタン計画で実際に
原爆がいつ製造されるか、によっていた。そのタイミングはヤル
タ階段でルーズヴェルトとスターリンの密約、ナチス・ドイツ降
伏の3ヶ月以内にソ連が対日参戦を行うことを約した。見返りに
ソ連はサハリン南半分、千島列島全域を獲得し、アメリカ海軍が
協力を行うこととした。これはルーズヴェルトの末期的症状の時
期でチャーチルがその密約を知って驚愕したがどうしようもなか
ったという。
その微妙なタイミング、やはりスチムソン陸軍長官の意向で京
都への最初の原爆投下は避けられた、二番目は小倉、だが通常空
襲部隊と原爆投下部隊は機密保持で相互に連絡しておらず、前日
、通常空襲がなされ、その火災煙が小倉上空を覆って投下地点の
確定ができず、そこで長崎にファットマンを抱えたB29は向かって
原爆を投下、沖縄に着陸したが、燃料はほとんど残っていなかった
という。
京都は原爆投下の第一の候補、なぜ第一番目に投下しなかった?
「決定的な原爆投下地」として温存した、のも事実だろう。日本が
頑強に、狂信的軍人に左右されてなお降伏を拒んだ場合、切り札的
投下都市、だったことは否定できない。どこまでも日本が降伏を拒
めばスチムソンでも抗せない。だがタイミングである、ソ連軍が満
州になだれ込んだ。もはや抵抗は無理、とさすがにこれは日本も
鈴木貫太郎首相のもと、ポツダム宣言を受諾、降伏した。皮肉だが
ソ連軍の満州侵攻が結果として京都を原爆から守った、とも言える
だろう。全ては危機一髪であった。もし日本の降伏がさらに延びて
いたら3番目の原爆投下は間違いなく京都であった。三発目の原爆
はテニアンに既に到着していたのだから。
この記事へのコメント
日本ラッパ史を研究中に各地の戦争遺跡を巡りましたら、多くが観光地化され昭和50年代に見た忘れられた戦争遺跡の方が真実を伝える気がします。