『会津八一全歌集』1951(中央公論社)最近、Kindleで復刊
新潟県出身の早稲田出の歌人、会津八一、1881~1956,そ
の全歌集が1951年、昭和26年、中央公論社から刊行されたが
、それが最近と思うがKindleで、電子書籍となって復刊した。
漢字はいっさいなく、ひらかなのみである。歌といって啄木
でも牧水、アララギ派の茂吉でもない、万葉、古今、新古今
でもない、ひらかなだけで特異に受け止めてしまうのかもし
れないが、和歌、短歌には素人ながらちょっと、いきなり入
りにくい世界ではある。まず会津八一その人、文学キャリア
を知ることから始めねばならないと思う。
会津八一の歌人としての生活は明治31年、1898年、17歳の
時に遡る。だからこの全歌集刊行時点で歌人としてゆうに半
世紀を超えていることになる。収録された歌の最初は明治41
年、1908年、27歳のときのものである。
八一が最初に世に出した「南京新唱」その序文には、
「もし歌は約束をもて詠むべしといわはば、われ歌を詠む
べからず。もし流行に順いて詠むべしというも、われまた歌
を詠むべからず。われ世に歌あるを知らず。世の人またわれ
に歌あるを知らず」とする。
「独住して独唱す」というのは八一の終生歩んだ道なので
ある。したがて全歌集刊行の申し出が中央公論からあったと
き、八一は一旦はそれを断っているという。だが、天才の歌
周でも秀歌は少なく、読者はイヤでも退屈する。八一は万葉
を愛唱していたが、広く膾炙されるものだけが後世に残る、
ことを望んだのだが、そのような遺志がなされない世の中で
は「自ら生前に訂正の筆を加えて定本を編纂も次善の策」と
考え直したという。
会津八一は万葉集に陶酔し、歌材を古事、古蹟に求め、南都
の地理、博物、縁起、仏像に採ったものが多い。
「京都散策」では
清水寺にて
きよみづの の やね の ひはだ の まだら に も
つゆ を ふくめる こけ の いろ かな
ある日、銀閣にて
あないじゃ の けうとき すがた め に ありて しづ
こころ なき ぎんかく の には
「平城宮跡」
平城宮懐古
あるとき は ないだうぢゃう に こもり けむ ひびき
すがしき そうじゃう が こゑ
八一は「わが真に好める歌としては、己が歌あるのみ」とし
て他人の評価は眼中になく、孤独に徹し、歌壇とも全く関わり
はなかったが、中学時代から正岡子規、伊藤左千夫の歌に親し
み、愛誦していた。だが性格的に馴染めないものもあったよう
で、歌に精進はしたが実はどこまでも、素人の手すさびとして
であり、専門的歌人との交渉を全く潔しとしなかった。
伊藤左千夫の晩年の歌に接しても「格調の変化著しきに目を
瞠りて、打ち驚くのみ」といったという。だが大正の半ばから
昭和にかけて幾分は心境の変化があったようで、やはりその頃、
外部からの影響も受けていたようだともいう。まずその作風的
にはアララギ派の歌人に近かったのだろう。
歌の創作は八一はスローペースで、初期は一年でわずか十首
ほっだったという。徐々に作歌のペースは上がった。連作には
反対の姿勢だった。
「歌はすべからくおのが実感衷情を歌うに終始すべし」で一
首の中にすべてを言い尽くすべき、と考えていた。歌壇につい
て関わるものはないとしつつ、時代の波には逆らえなかったと
歎いてもいた。徐々に古蹟にまつわるテーマから生活に取材の
歌も増えていったゆえに、より読者の心情に訴える歌も増えた
というべきか。
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