色川大吉『ある昭和史、自分史の試み』1980,民衆の個人史を積み重ねて歴史の真実に迫る「色川史学」
「歴史は何よりも民衆をその視点としなければならない」と
いう歴史学において燦然と輝く「色川史学」である。1925年7
月生まれ、2021月9月に死去、死の直前、同意を得て上野千鶴
子が婚姻届を出し、わずか15時間の夫婦の時間となった。姓は
上野にした。でも生まれた時期、亡くなった時期は私のあの「
母親」とほぼ同じだ。でも本当に人間のレベルは天地の差、ど
ころではないと慨嘆するが仕方がない。
さて、色川さんの代表的著作といっていい「ある昭和史、自
分史の試み』現在は中公文庫で初版から中央公論社である。こ
のタイトル、副題なのか、「自分史」とは色川史学の生み出し
た概念である。「民衆の視点」、「民衆史研究」の提唱者であ
り、日常を生きる普通の庶民の活動こそが歴史の奔流であり、
英雄史観と真っ向対立するものであった。
本書はそのような色川史学の基本のコンセプトを踏まえ、今
度は著者である色川さん自身を一人の民衆として、その個人史
を通じて満州事変の頃から終戦までの日本の歩みを描こうとし
た「十五年戦争を生きる」と、さらに橋本義夫という多摩の農民
活動家の明治末期から刊行当時(初版は1980年)までの生き方を
辿った「ある常民の足跡」、あた主として昭和初期から敗戦まで
の天皇の言動を研究した「昭和史の天皇像」以上三篇で昭和史を
より立体的に、個人史を通じた人間的で生活実感に満ちたものと
しようというコンセプトである。
この中で一番の力作は「昭和史の天皇像」であろうか。戦時下、
天皇は戦争の実際を知らされない、いわば蚊帳の外の存在だった、
というのが全く大間違いの俗説である、と言明している。実はこ
れは林房雄がいみじくも言い放った「天皇は我々とともに戦われ
たのだ」ということの真実たるゆえんだ。戦争、すべての作戦は
昭和天皇のしるもので「大命」なくして撤退は許されなかった。
wikiの「第三次ソロモン海戦」の記述でも昭和天皇が日露戦争
での旅順での日本海軍大損害の例を出して、極めて注意を要する
、とわざわざ警告を発していたのである。
本作戦について事前に軍令部総長永野修身大将から上奏を受けた昭和天皇は「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初瀬・八島の例あり、注意を要す」と、一作戦に対しては異例ともいうべき警告を発している[287]。日露戦争時、旅順港閉塞作戦が長引き、作戦がマンネリ化する中で、両戦艦がロシア海軍によって待ち伏せとして敷設された機雷に触雷、沈没し、6隻の主力艦中、一瞬にして2隻を喪失した戦訓を天皇はよく承知していたのである。しかしこの言葉が現地に届いたのは作戦開始後のことであり、そして天皇の危惧は的中することになってしまった。
本書ではその資料、証拠として側近の木戸幸一が戦犯釈放後に
学習院大教授、金澤誠ら華族研究会で語った内容が引用されてい
る。
質問:陛下は戦争の実情はよく知っておられましたか?
木戸:それは当然です。軍は陛下の命令なくして一兵たりとも
動かせないのが大原則でその通りでした。ツンボ桟敷だったは全
くの嘘です。
天皇は軍の大元帥だったのだから当然だろう。明治以降の天皇
制!は江戸時代までの天皇とは縁もゆかりも無いものであった。
おまけに明治天皇は長州藩のかこっていた大室寅之祐なのである。
ただ、この重大な歴史的事実は色川さんですら、口をつぐんでい
る。
日米開戦直前ころの政府や軍の歴史認識、情勢判断がいかにお
粗末を極めていたか、である。当時の大本営、政府連絡協議会の
議事録の引用も、あまりの政治の実態に驚かざるを得ないだろう。
日本が破局に突き進む時代、色川さんは中学時代、軍人志望で
二度も陸軍幼年学校に失敗、昭和14年、悲恋映画「愛染かつら」を
見て感動し、軍人になるより高等学校に行こうと考えた。高校時代
はまだ自由もあったが、東大国史科入学以降は教授も狂信的でお話
にならなかった。学徒出陣で入隊後は毎日に、殴られ続けた。戦争
の実態は全く知る由もなかった。
同じ頃、多摩の農民運動家、橋本義夫は、多摩御陵二参拝に来た
東條英機の乗る車を止め、戦争終了を説得しようと計画し、特高に
逮捕された。その聡明で勇敢な行動のベースにあったのは自由民権
運動の遺産である。
かくして個人史を積み重ね、歴史の真実に迫る、というのは、な
らもっと多数の個人史が必要になるが、重要な方法と云わねばなる
まい。
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