伊藤整『文学入門』光文社、カッパ・ブックスだが内容は難しいが、問題が多い

光文社の人気シリーズだったカッパブックスから刊行された
伊藤整『文学入門』、同じ著者で『近代文学入門』もあるが別
もの、さらに先行する著書で『小説の方法』もある。カッパ・
ブックスはこういう本格的な本も結構あったのである。
『文学入門』自分で「今『小説の認識』というものを執筆中
なので、その間に得た結論のようなものを中心として、文学の
形式、その感動の働き、他の芸術との比較という諸点からこの
本を書いた」という。
十章あり、
「物語の性質とその形式」、「悲劇と喜劇」、「日本の近代
社会と小説」、「下降認識と上昇認識」、「芸術の本質」など
がある。伊藤整らしく、何か冷たいイメージ、筆致である。
日本の近代文学を論じる著者、伊藤整はその特色として「
社会構成と人間関係、宗教家や心理学者たちが問題にしている
人間そのものの内的構造」を重要なものと考えるようになった
というのだ。
初期の小説の構成は、事件や人物が栄えて、滅びていくとい
う物語の並列の形式をとった。この形式をもっとも緊密な連絡
あるオーケストラ式に発展させたのが自然主義文学だという。
社会に対して反逆し、自分の弱点を暴いて恥にまみれるこのタ
イプは、太宰治のように破滅型へと進行した。言い換えるなら
ば、私小説という自伝小説は、人生の真実を求めて古い道徳か
ら逃げ出したことに始まりながら、結末においてはその実践的
生活者を破滅させる結果になったというのである。
西欧でも社会の虚礼や形式主義に苦しみ、逃亡した芸術家は
多いが、反社会的な自伝小説で人を納得させることは出来ない。
したがって、自分の経験を別の形にはめ込んで、現実とは関係
無関係な作品を書く。それは事実そのままでは芸術にならない、
ということである。この二つの理由でフィクションが書かれる
ようになった、と伊藤整はいう。
要は西欧の小説は、個人が自分の欲するように生きようとす
れば孤立し、他を犯すことになるが、それをどう克服するかに
生きる意義を見出すのに対し、日本の私小説は概してだが社会
に反抗し、死の方向に落ちてゆく経過の中に自己満足を発見し
ようとする。
伊藤整は私小説やプロレタリア文学が下に落ちていきながら
人生の深層を発見するのを「下降認識」といい、その反対に人
間の社会関係を理論で理解させるのを「上昇認識」という。ど
ちらの方法を取るにしても、作家の経験が芸術になるまでには
「感動が一つの思想によって統一され、リズムを持った独立し
た世界を作らなくてはならない」という。事実が芸術になるま
でには演技が必要である。実生活の中から「生きることについ
ての感じを見出し」、それを純粋な形で表すのに都合の良い別
の物語を作る。これを「移転」と呼び、芸術の本質とみなす。
伊藤整はひろく文学というが、実はこの本は私小説を主とし、
それを芸術として位置づけるための弁なのである。文学だけで
はなく、音楽、絵画、俳優の演技から社会と人間の心理構成に
まで発展して、「移転による本質把握という自分流の芸術本質
論」に辿り着いた、というが、それは伊藤整の持論を都合よく
裏づけるために使われただけである。創作の本質を全く明らか
にしていない。伊藤整のいう演出とか移転は、19世紀の英国の
詩人たちによって展開された芸術本質論であるが、フロイドの
精神分析による文学の研究で、移転や演出の可能性や方向が新
たに展開していることを見逃している。
悲劇や心理小説についても疑問があるし、絵で輪郭を描く方
法では、文学では題材に道徳や社会秩序を書き表すのと同じ方
法であるとし、ルオーの絵とグレアム・グリーンを例に採るな
ど、非常に妙に独善的だし、またバイロンやワイルドは「逃亡」
ではなく、追放であって、日本の私小説の解釈にも多くの問題
がある。
伊藤整は「既成の哲学や美学に自分の考えを合致させ」る必
要を感じないで、独断的かも知れない、という。合致の必要も
ないし、独断もいいが、それは正しい知識の上に立ってであり、
自分の考えを一貫させるには西欧の社会制度や歴史まで誤用す
るのは、非常に信頼性を失わせている。
この記事へのコメント