久我美子さん、死去。93歳で死去、「俳優の久我美子」は非礼、「女優の久我美子」と云うべき、馬鹿げた言葉狩り
6月9日、2024年6月9日に93歳で亡くなられた。日本映画
史上、歴史に残る女優だが、報道はやや奇妙だ、「俳優の
久我美子さん、93歳で死去」多くのサイトが、である。この
表現は故人を冒涜する不見識な表現だ。「女優の久我美子さ
ん」と書くべきである。「俳優の、・・・・・」これはおか
しい。NHKが率先し、欧米の行き過ぎたジェンダーフリー
の風潮にかぶれ、それに右倣え、馬鹿げた言葉狩りだが、
文化的に弊害は大きすぎる。私は映画とは女優を見るもの
だと思う。「女優」が使えないなら、どう云えばいいのか。
「私は映画とは女性の俳優を見るものだと思います」これ
ではサマにならないだろう。
岡山の池田家当主、池田隆政氏と結婚された池田厚子さん
と女子学習院で同級であった。端的に云うならば、久我美子
さんは窮極の上流のお嬢様である。戦前の公家華族でも特に
格式の高い家に生まれた。父親は侯爵で貴族院議員だった。
だが戦後は特権を一気に失い、経済的基盤も崩壊した。そこ
で働かねばならない、東宝のニューフェースに応募、周囲か
らの反対は尋常なものではなかった。まだわずか15歳のとき
である。戸籍を叔父の住所に移しての応募だった。応募者は
4千人のうち採用は男子16人、女子32人であった。そこで
採用されたが、、当時はなお華族制度が存続しており、
いかに戦後で価値観が激変とは云え、侯爵家の令嬢が水商売
の映画界に入ったというのは華族の体面を汚し、j宮内庁から
も華族としての礼遇は取りやめになると祖父が大反対、結局
、戸籍を母の兄が養子にないっている池田家に移して、池田
美子(はるこ)の名前で東宝入り、と芸名は東宝の希望で久我
美子とした。
1
1946年7月東宝演技研究所入り、参ヶ月の養成期間を終え
て10月に東宝専属となった。同期に岸旗江、若山セツ子、三
船敏郎などがいた。当時,東宝は大争議、進駐軍が介入するほ
どであり、制作はストップ、主演級がごっそり脱退で、制作
再開後、新人にも主役の仕事が回ってきた。
久我美子は1947年3月封切りとなった第一作オムニバス映
画「四つの恋の物語」の第一話、「初恋」の主薬に抜擢され
たが、高校生の池部良に恋心を抱く女学生の役だったが、ま
だ15歳、あまりに小さく、うぶなお嬢様以上に目立つ存在で
はなく、初対面の池部良を落胆させた。撮影ではカットをく
りかえされ、助監督にカチンコで頭を叩かれた。
その後、成瀬巳喜男監督「春のめざめ」主役の女学生役、
ここで長期ロケに参加、桃を食べ過ぎで大腸カタルとなっ
てそれまでの小太りが激痩せしてしまった。このときから、
小柄で痩身というイメージが出来上がった。1948年、黒澤明
監督の「酔いどれ天使」、セーラー服の女学生という役で、
格別、名前もない役だったが、悪にうごめく悪者的主人公と
の対比でこの映画唯一の希望の象徴という率直で純心な女学
生を演じて好評だった。端役を端役で終わらせない、印象を
しっかり残すという女優としての意地が、その後も見られる
特徴となった。
1949年、松竹で渋谷実監督「朱唇いまだ消えず」主演の高
杉早苗の娘役、音楽学校生徒約だが監督から「それが芝居と
いえるか!」と怒鳴られて苦汁をなめた。1949年、谷口千吉
安徳「ジャコ萬と鉄」漁師の三船が恋い焦がれる教会の少女
役で好演だったが、いかにも台詞の少ない端役でしかなく、
デビュー当時の華やかさも失せて伸び悩みだった。
その久我美子がいちやく注目されたのが今井正監督「また
逢う日まで」1950,可憐な少女タイプからやっと脱して、日
本映画には希少な気品あるヒロインとしてこの映画の評価を
たからしめた。この映画はロマン・ローラン「ピエールと
リュース」をもとに、水木洋子のスクリプトによるが、水木
は戦時下、間もなく応召する大学生との結ばれぬ恋をして、
彼と待ち合わせの駅で空襲で命を落とすという若い画家の卵
約として主演した。軍国主義に流れる世相と同世代の若者の
中dえ、あえてそれに背を向け、自分たちだけでも高い文化の
香りに生きようとする恋人たちの映画であり、彼女の内向的
な強い自我を感じさせる容姿と気品あふれる台詞回しが、蛍
子というこの役の悲劇的な性格を見事に表し、冷え冷えの情
景のなか、展開される相手役、岡田英次とのガラス越しのキス
シーンが、後代まで語り草となるほどの名場面となった。今井
正監督に徹底して鍛えられ、夜間撮影が40日間に及ぶという苦
しみにも耐え抜いた。この映画が大きな飛躍となったことはい
うまでもない。
「沖縄俘虜記」などの著書もある宮永次雄氏の「また逢う日
まで」の映画評
映画は人生のひとコマです。満鉄在職中、まだ若かった妻と幼子
を新京(長春)に残し、応召、沖縄戦に、その捕虜生活から解放さ
れ、復員した日本で最初に見た映画が今井正監督の「また逢う日ま
で」でした。新宿の小屋で立ち見のまま、私はその感激に打ち震え
ました。戦争に蹂躙され、打ちひしがれた私の人生に新しい息吹を
吹き込んでくれた、唯一無二の映画です。
その感激がそのまま久我美子への魅力への思いにつながったのは
当然でしょう。もう一度、いや何回でも見直して、窓越しにキスを
交わした清純な彼女の姿をかみしめたい、と念じます。今も、あの
時の久我美子の表情は私の心に焼いついて離れることはありません。
「また逢う日まで」
特段に美人タイプとも言えないが、その演技、台詞回し
は理知的で洗練されている、日本映画史を代表する女優で
あることは言うまでもない。
私の選ぶ
久我美子の出演映画 ベスト5 制作年代順
「また逢う日まで」 1950
「白痴」 松竹 1951
「あにいもうと」 1953
「にごりえ」 1953
「挽歌」 1957
脇役的だが「女であること」の久我美子もいい
「挽歌」より
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