谷崎潤一郎『源氏物語・現代語訳』、現代では、もはや存在価値なしか

紫式部「源氏物語」の現代語訳、その最初は与謝野晶子に
よる現代語訳である。その後は谷崎潤一郎、ともに戦前である
与謝野晶子は多くの修正を加えた改訳を行っており、谷崎は戦
後、改訳を行っている。さらに玉上琢弥、円地文子、角田光代、
瀬戸内寂聴、田辺聖子、林望、ま英訳でWaley,翻案だが橋本治
、と思いつくだけだが、荒っぽくも凛々しい与謝野晶子訳、いか
にも関西風でヌメッとして原文に忠実というなら忠実な谷崎訳、
その後は「よりどりみどり」と言える。正直、角田光代は気取り
がない、円地文子は流石に格式を感じさせる、寂聴、田辺聖子は
個性がにじみ出る。ただ現代語訳、を超えた意図がある。
で長く正統的な現代語訳とされた谷崎潤一郎、だが最初の戦前
の現代語訳で谷崎は序文で
「私にしてもし余生があれば心ゆくまで修正することを老後の
楽しみにし、いつか完璧なものとして世に送り出したい」
それまではやや雑な与謝野晶子訳だったから、その谷崎の文章
は流麗さが際立っているとされ、原文を読むのと同じような情趣
があるとされたものだという。実際、現代語訳でもなければまず
源氏物語の通読など風通は出来るはずがないからその価値は高い。
実際、名前だけは有名だった「源氏物語」だが、現代語訳で初
めて身近なものとなった。もっとも「源氏物語」が女性が女性の
ために書いたものだから、現代語訳を読んでも面白くないと感じ
る人はもう仕方がないと思う。
ともかく戦前は「与謝野源氏」と「谷崎源氏」、戦後は百花繚
乱である。戦後の「老後の楽しみ」だったという谷崎のライフワ
ーク、源氏物語の現代語訳だが旧訳は「である」調から「です、
ます」調になっている。源氏の現代語訳なら「です、ます」調は
好ましいのは言うまでもないだろう。
柔らかくなるだけ、でなく、旧訳であまりに文章が長ったらし
かたことがある。原文は実は簡潔であり、一つの文章を短くした
わけである。
改訳、決定版の「谷崎源氏」は文章の切れ目が原文にずっと近
い。だが他方で難点が生まれた。原文は古典語らしく主語はまず
省かれていることが多い。だが現代語訳は主語は明確にしなけれ
ばならない。読者に理解させるために必要である。旧谷崎源氏か
文章が長く続いているので、その点で有利だったが、短く原文通
りにすると「主語は」?という疑問が常に噴出してしまった。
新谷崎源氏は、いうならば調子の連続と云う点で問題が生じた
のは否めない。それと品格を毀損しているのはやたら、語尾に
「ね」が乱用されていることである。「私のことを思って下さい
ね」とか「ですわねえ」、ちょっとこれはいただけない。
あらっぽい与謝野源氏に対し、本文に忠実で丁寧な谷崎源氏と
いう評価はそうかもしれないが、ことさら忠実すぎて文章が奇妙
なものになっている。与謝野源氏や戦後の多くの現代語訳のよう
に、原文の情趣を壊さない程度に独自の文学として書けばよかっ
たのでは、というのも説得性はある。角田光代、田辺聖子、寂聴
などの現代語訳は十分、独自の作品となりえていて、また原作の
匂いを維持しているのだから。
やはり古典の文章、そのまま忠実にでは分かりにくい、ありてい
いに云えば魅力がないものになりかねない。現代語訳とはただ現代
文に換えるだけではなく、現代的に再創作しなければ退屈で分かり
にくいものとならざるを得ない。まして源氏物語だ。むしろ「与謝
野源氏」の再評価が必要だと思える。
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