井上靖『霧の道・山の河』講談社ロマン・ブックス、中間小説らしい手際のよさ

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 この二作品は1954年に刊行されている(雲井書店)その後は角
川文庫、文春文庫、講談社ロマン・ブックスからである。作品
としての知名度は低い。井上靖は本当に多作な作家で、いわゆ
る現代物の中間小説を量産している。詩的な部分と大衆小説的
な部分を兼ね合わせた作品群だ。その量産ピークの頃にしても
、とりあえず作品として成立している。

 『霧の道』は生まれついて顔にコンプレックスとなるシミの
ようなもの、を持っている女性、とくるから何だか読み始めて
も気分が落ち込んできそうだ。それを意識するようになったの
が小学三年の頃からだという。(戦前の話で)女学校に行くように
なって自分は何か劣った特殊な人間と思い込むようになった。

 その彼女の顔を、ある時、美術学校の学生がスケッチしてく
れた。そこにはコンプレックスたるシミは描かれていなかっ
た。彼女はそれは実際とかけ離れているとして、自分でスケッ
チにシミを書き加えた。

 だがその時から彼女、三弥子はその美術学校学生の小宮高介
にほのかな恋心をいだいた。その後、やはり三弥子を小宮が恋
していると知って二人は結婚する。だが小宮にはもう一人、恋
していた女性がいた。それは同じく絵画の勉強をしている、き
ぬ子という三弥子とは正反対の天真爛漫な性格だった。

 この作品は二人の女性が、それぞれの個性に応じて、小宮と
の愛を争うという設定である。ラストはきぬ子、が小宮の個展
で小品を一枚買い求め、それを「小宮の遺骨よ」と言いながら、
両手で抱えて歩いて買えるシーンだ。

 例によって作者は二人の女性の心理をみてきたように克明に
描いている。温かい筆致だろう。これはこの作品の実は大きな
特徴である。何か、いたわりの気持ちで書いているような感じ
である。だが文学と思えば全く傍観者的である。内面に入って
の表現ではない。縁側から遠くから二人の女性を眺めえている
,ような風情だろう。

 もう1篇『山の河』三津子という結婚歴があり、今は自立して
働いている女性が男性から求婚され、迷いながらある偶然から
結婚に入っていくという話だ。

 三津子は学校時代、友人に奪われた恋人がいる。三津子が温泉
に仕事の休暇で求婚の男性に誘われ、遊びに行くが、そこで昔の
恋人とそれを奪った友人、夫婦となっていた、その二人に出会う。
三津子の心は昔の恋人に向かう、夫婦ながら別れようとしていた
のだが、動揺しつつ、心を整理しなければならない。だが求婚者
に抱かれるところで終わる。

 『山の河』はもつれた糸をほぐすような、微妙な心理の綾が描
かれる。

 ・・・・・・このような作品を量産できた、中間小説作家、井
上靖らしい作品である。『山の河』のほうが作品的には心理がよ
く描かれている。微妙である。だが大団円というのも、通俗すぎ
る印象を受けてしまう。

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