山本周五郎と中島健蔵の大衆文学論争、何が純文学との違いか?

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 これは1955年、昭和30年ころのことだ。あの山本周五郎と
フランス文学者、文芸評論家の中島健蔵との間に行われた、
大衆文学論争、鞘当てである。無論、中島健蔵は純文学一筋
というスタンスである。

 ことの起こりは中島健蔵が雑誌の座談会で

 「新作の大衆小説は読むに耐えない。パチンコていどでは
ないのか」とか「あるのは時代錯誤の封建的思い込みだけで
読者を舐めている」

 と散々にこき下ろしたのであった。それに対し、腹に据えか
ねた山本周五郎が朝日新聞でその怒りをぶちまけた、のである。

 山本周五郎は「大衆文学」の雄とされていた。山本によれば

 大衆小説は「普遍性」の上に成り立つもので、できるだけ多
数の読者を獲得せねばならない使命を帯びている。いわゆる「
純文学」の多くが「作者自身の芸術的良心を満足させるため」
のもので別段、多数の読者を獲得することが目的ではないとす
る。大衆小説作家はこの「普遍性」を維持し、守るのが責務だ
が困難である。批評家はこれを無視している、と中島に反駁し
たというのだ。

 対して中島は

 自分は元来、純文学、大衆文学の区別など認めない。だが山
本の云うように「娯楽性を尊重のあまり、作話術と筋立てのケ
レン味を除けば、実際、何も残らない」ような作品が少なくな
い。これらの大部分が

 「ヒューマニズムも持たず、切っはったが多く、義理人情に
絡むか、近代的な精神に背を向け、つまるところ作話術とケレ
ンで読者を愚弄し、結果、パチンコほどの娯楽性もないものが
少なくない、これは困りものだ」という考えを変更する必要は
ない、が「作者の芸術的良心のみ満足」というような作品は、
たしか尊重できない、と。

 というのだが、私は思うに本質的に大衆文学も純文学も区別
しなくていいと思える。ドストエフスキーは極めて多くの読者
を獲得しているが、トルストイでも、「多数の読者の獲得」が
まずは使命の殆どの大衆文学より読者数は遥かに多い。

 極端な大衆文学、、というより通俗文学と極端な純文学を比
べたら、無論、明らかな違いはあるにせよ、本質的にはどうか、
とは思う。

 だがよくわからないのは山本周五郎の云う「普遍性」だ。多
分、「普遍性」を万人受けしやすい、多くの人にそのまま受け
入れられやすい、という意味合いで使っているような気がする
が、それは「普遍性」の名に値しないと思う。「通俗性」だと
思う。

 それを古今東西のひろく人類一般に共通する精神的情緒のよ
うな意味合いで云うなら、別に大衆文学だけが目指すべきもの
でなく、すべて本物の文学が目指すべきものだ。問題は大衆文
学こそ、多くがその「普遍性」を欠落して、バカバカしいよう
な切ったはったの乱痴気騒ぎに終始していることに難がある、
とも言えるが、さりとて山本周五郎、吉川英治さらには司馬遼
太郎の文学はそんな低俗なものではない。大衆受けと云うなら
そのとおりだが、立派な文学性を持つ。またではチャンバラの
大衆小説、佐々木味津三の「旗本退屈男」や長谷川伸の作品が
、では安易なものか?と問われたらぜんぜん違う、「純文学」
作家が容易に書けるようなものではない、はずだ。司馬遼太郎
の作品だって、吉川英治だってその努力は並大抵のものでない。
私小説を「純文学」と言うなら執筆の労力は比較になるまい。

 山本周五郎の小説が大衆文学的な性格を持つのは事実だろう
が、さりとて純文学と本質は異ならないだろう。普遍性はすべ
手の文学に共通の目標だ。中島が云う「山本は自分を大衆文学
作家などと限定するのはやめてほしい」というのは正しい。
大衆文学は要は寝ても覚めても読者受けというが、大衆文学を
自認の作家でも自分の徹底して忠実であっていいのではないか
、そこに文学的良心があるはずである。

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