人間は努力しなくても、生きている限り迷うものだ

昔、ドイツ語の文法書の例文に日本語の内容で「人間は努力
している限り迷うものだ、 Es irrt der Mensch,solang der strebt
、なのだが、では努力しなければ迷わないのか、その人しだい
だが、努力をさほどやらないと、別の意味で迷いが噴出してし
まう。人間、努力しているつもりが希薄でも、実は意外と努力
しているものだ。もがき苦しみというに近い、時間が何か崩れ
去っていくようだ。この崩れ去る時間の中で浮遊する。精神を
持つ以上はそこにあるのは煩悶というのだろうか。誰一人、生
きている限り、安穏と暮らせるものではない。
ある悩み、苦しみが去ったら即座に別の悩み、苦しみが襲っ
てくるものだ。ただでさえ、災難、試練が生きている以上,即座
に近く襲来するものだ。・・・・こう書くと、あまりに一般的
過ぎるが、あのドイツ語の格言は、妙に努力を強いるプレッシ
ャものだ。
ことほどさように、生きることはどう転んでも悩みである。
阿呆陀羅経みたいなものだが、この作者のヨガ行者の藤本
憲行氏も70歳、古希に届かなかった。名声は得てもやはり寿
命がなかったのだ。私が改変を加えているが。
若さがあるときはカネがない
カネがあるときは若さがない
地位を得たときは寿命がない
悟りを得たときは富がない
名誉を得たときは健康がない、寿命も残り少ない
健康を得たときは地位もカネもない
といくらでも書き足せるのかも、愚痴になるが生きるとは、
かくも厄介なことだ。どこに心の安住を求めるべきなのか、
まして私である。まさに受難の人生、際だつ才能などないの
は無論だが、通りいっぺんの当たり前な実務性もない。恥だ
けは限りなく、では、人生いろいろでは済まされないものだ。
だが過去はもはや動かせない、努力はどこまでも未来にしか
ないのである。過ぎた過去は栄光なき凡人にはゴミですらな
い。才能はなく、ありきたりの実務性もなくても、それは十
分以上の悩みを生み出す、悩み、苦しみは生きていること自
体に付随しているわけである。
・・・・・・だからどうした、なのだが人間、救いは生き
ること、だけというしかない。何かやり遂げるではない。だ
が受難、理不尽に翻弄で人生終わっていいのか、である。そう
なるにしても、腹ふくる思いである。
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